土岐・斎藤氏時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 15:33 UTC 版)
天文末年頃、 不住庵梅雪から斎藤道三へ茶の座敷置き合わせ法の『数奇厳之図』を伝授され、これが道三から良通に伝授され、さらに良通から志野省巴に相伝されたという、茶の湯の系統が明らかになっている。 はじめ土岐頼芸に、次いで頼芸を追放し美濃を治めた斎藤利政(道三)に仕え、西美濃三人衆の1人として活躍する。 弘治2年(1556年)、利政とその子・義龍の争いである長良川の戦いにおいては、義龍に味方した。なお、姉・深芳野は、最初は頼芸の側室であったが利政に譲られ、義龍を産んでいる(『美濃国諸家系譜』)。 道三の娘婿・織田信長は、尾張国を統一し、永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで今川義元を敗死させると、美濃攻略の機会を伺っていた。義龍が病死し、その子・斎藤龍興が跡を継ぐと信長は美濃侵攻を本格化させる。それに対し良通は、永禄4年(1561年)の森部の戦い、同5年(1562年)の軽海の戦いなどで活躍した。 しかし、永禄6年(1563年)に他の西美濃三人衆と共に龍興に諫言するものの聞き入れられず、それは翌年の竹中重治と安藤守就による稲葉山城占拠に繋がる。一度は和解となったものの、永禄10年(1567年)8月1日に三人衆と連盟で斉藤氏の配下から離脱し、織田信長に組している(『信長公記』)。
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