土岐光衡とは? わかりやすく解説

土岐光衡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/10 05:16 UTC 版)

 
源光衡/土岐 光衡
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 平治元年(1159年
死没 元久3年(1206年3月20日
別名 土岐三郎(『吾妻鏡』)
土岐左衛門蔵人(『尊卑分脈』)
墓所 岐阜県瑞浪市土岐町中島の光善寺
官位 従五位下蔵人左衛門尉美濃守
主君 源頼朝頼家
氏族 土岐氏
父母 父:源光長
母:宣能卿女白川局
養父:源光基
兄弟 国長、光経光衡
土岐光行浅野光時
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土岐 光衡(とき みつひら)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将鎌倉幕府御家人伯耆源光長の三男。美濃源氏嫡流土岐氏の祖。

略歴

治承・寿永の乱(1180~1185年)で討死した源光長の末子であったが、伯父・光基の養子となり土岐氏の嫡惣を継承した[1]

治承4年(1180年)に源頼政が平家に反旗を翻して立ち上がった宇治川の戦いには光衡は参加していない。

さらに同年9月の木曾義仲の旗揚げでは、美濃源氏の一族の多くが従軍し、実父の光長、実兄の源光経山県郡上野の落合国時[2]らも参加して戦死しているが、この時も光衡は参加していない。

平家は治承4年(1180年)と養和元年(1181年)の源氏の旗揚げに対して近江飛騨の武士に多く味方に付けて対応している[3]

養和元年(1181年)1月、平維盛は美濃に転戦し、美濃源氏の数氏を討って、その首を京の七条河原に晒している[4]

このような平家の動きを警戒して光衡は源氏の一員として参戦しかねていたが、寿永3年(1184年)になって、一族を率いて鎌倉の頼朝軍に加わって勝利に貢献した。

そのため平家滅亡後は鎌倉幕府御家人となった。

建久4年(1193年)に源頼朝富士の巻狩に出掛けた際、これに随行した「土岐三郎」は光衡を指すものと推定されている(『吾妻鏡』同年5月10日条)[5]

建仁年間(1201~1204年)に大内氏梶原氏に次いで美濃国守護に任じられたと考えられる[6]。そして美濃国内の「兵馬指揮統率権・治安維持警察権」を与えられた。

土岐氏は、先に美濃国に土着していた山県郡の源頼綱の系統や方県郡の源重宗の系統、その他の美濃源氏の各氏の上に立って美濃源氏の主流となった。

美濃国土岐郡一日市場館を本拠として「土岐」を号したとされることから、実質的な土岐氏の祖とされる場合が多い。

そして天徳寺を氏寺、光善寺を土岐氏の菩提寺として天台宗の寺院を開基したとされる。

元久3年(1206年3月20日に没し、光善寺に葬られた。

系図類では光行光時の2子が記されており、嫡男の光行が土岐氏を継承した。

また光時は浅野氏の祖となり、子孫は浅野家(広島)・浅野家(赤穂)=千葉、土岐頼忠→水野→神野城の神野家(現在は奈良県在住)に分かれた。

脚注

  1. ^ 尊卑分脈』に「実父光長也 為光基子相続」の記述。
  2. ^ 源国政の男子
  3. ^ 玉葉・吾妻鏡
  4. ^ 吾妻鏡
  5. ^ 横山 2024, p. 24.
  6. ^ 「土岐氏主流史考 岐阜県史年譜」

参考文献

  • 『瑞浪市史 歴史編』 第四編 中世 第一章 鎌倉時代の郷土 第一節 美濃源氏土岐氏の発生 p240~p245 瑞浪市 昭和49年 
  • 横山, 住雄『美濃土岐氏―平安から戦国を駆け抜けた本宗家の戦い』戎光祥出版株式会社、2024年4月10日。ISBN 978-4-86403-504-0 




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