足利兄弟の重用
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後醍醐天皇によって勲功第一と賞された足利尊氏(もと高氏)とその弟の直義は、新政でも高い官職に就き、莫大な恩賞を得た。 最も象徴的な褒賞として、元弘3年/正慶2年(1333年)8月5日に、高氏は後醍醐天皇の諱「尊治」の一字を賜った。これ以降高氏(高氏の「高」は北条高時からの偏諱)は「尊氏」となる。 土地の恩賞については、尊氏は伊勢国柳御厨(現在の三重県鈴鹿市に所在)以下30ヶ所、尊氏の弟である直義も相模国絃間郷(現在の神奈川県大和市に所在)以下15ヶ所を与えられた(『比志島文書』)。 守護職については、尊氏は鎌倉時代からの上総国・三河国を安堵され、さらに武蔵国・伊豆国などの守護職を得た。 官位としては、元弘の乱の翌年までに正三位に叙せられ、鎮守府将軍・左兵衛督・武蔵守・参議などに補任、武門では全軍指揮官であると同時に、朝廷内部でも公卿として最高幹部の一人になった。弟の直義も左馬頭として武士に最も栄誉ある官位の一つを与えられ、鎌倉将軍府執権(実質的な関東の指導者)に任じられた。 形の上での厚遇だけではなく、尊氏は建武政権の中枢にも積極的に参与した。 たとえば、後醍醐天皇が鎌倉幕府に勝利した元弘の乱の戦後には、畿内での戦功認定について直接的に関わり、著到状(戦闘参加報告)には自ら判をしてやり、軍忠状(恩賞の基礎となる軍功証明)については仲介役として恩賞方に回す役目を担った。同様の権限は護良親王にも与えられたが、主たる任務を果たしたのは尊氏の方だった。さらに、後醍醐天皇が帰京した6月5日から2日内に、尊氏は天皇から東国や九州といった地方の戦功認定処理を全面的に任され、「地方の戦功認定者→尊氏→後醍醐」という経路で戦功認定報告が行き渡るように設定された。こうして尊氏は、後醍醐天皇から信任された恩賞認定を通して、地方の守護ら有力者武士団と、強固な関係を築いていった。 尊氏は鎮守府将軍となったのは前述したが、これは決してお飾りの地位ではなく、建武政権においては実質の最高軍事責任者だった。東北には陸奥将軍府があり、関東には鎌倉将軍府があるため、これらの地域では実際に権限を行使する機会がなかったが、九州で北条氏残党の反乱が発生した時には、鎮守府将軍としての権限を発動して九州の武将を指揮した実例がある。 研究史:足利氏寄りの史書『梅松論』に、公家たちが「無高氏(尊氏なし)」と吹聴する描写があることから、かつては尊氏が政治の中枢から排斥されたとする説が主流だった。しかし、その後、1978年に網野善彦が、一次史料の綸旨と施行状の研究から、尊氏は鎮西軍事指揮権(九州の全軍指揮権)を任されていたのではないかと指摘し、伊藤喜良と森茂暁らも研究を進めて網野説を支持した。2002年には吉原弘道が、網野説を発展させて、尊氏は(九州に限らず全国の)全軍指揮権を持ち、建武政権の軍事部門の責任者となっていたのではないかと論述し、他の研究者からも肯定的に紹介されている。吉原によれば、『梅松論』の「尊氏なし」というのは実際の状況ではなく、尊氏の異例の昇進へ公家たちが抱いた不満を現してるのではないかという。
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