足利兄弟の重用とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 足利兄弟の重用の意味・解説 

足利兄弟の重用

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 04:30 UTC 版)

建武の新政」の記事における「足利兄弟の重用」の解説

後醍醐天皇によって勲功第一賞され足利尊氏(もと高氏)とその弟の直義は、新政でも高い官職に就き莫大な恩賞得た。 最も象徴的な褒賞として、元弘3年/正慶2年1333年8月5日に、高氏後醍醐天皇の諱「尊治」の一字賜った。これ以降高氏高氏の「高」は北条高時からの偏諱)は「尊氏」となる。 土地恩賞については、尊氏伊勢国御厨現在の三重県鈴鹿市所在)以下30ヶ所、尊氏の弟である直義相模国絃間郷(現在の神奈川県大和市所在)以下15所を与えられた(『比志島文書』)。 守護職については、尊氏鎌倉時代からの上総国三河国安堵され、さらに武蔵国伊豆国などの守護職得た官位としては、元弘の乱翌年までに正三位叙せられ、鎮守府将軍左兵衛督武蔵守参議などに補任武門では全軍指揮官であると同時に朝廷内部でも公卿として最高幹部一人になった。弟の直義左馬頭として武士に最も栄誉ある官位一つ与えられ鎌倉将軍府執権実質的な関東指導者)に任じられた。 形の上での厚遇だけではなく尊氏建武政権中枢にも積極的に参与した。 たとえば、後醍醐天皇鎌倉幕府勝利した元弘の乱戦後には、畿内での戦功認定について直接的に関わり著到状戦闘参加報告)には自ら判をしてやり軍忠状恩賞基礎となる軍功証明)については仲介役として恩賞方に回す役目担った同様の権限護良親王にも与えられたが、主たる任務果たしたのは尊氏方だった。さらに、後醍醐天皇帰京した6月5日から2日内に、尊氏天皇から東国九州といった地方戦功認定処理を全面的に任され、「地方戦功認定者→尊氏後醍醐」という経路戦功認定報告が行き渡るように設定された。こうして尊氏は、後醍醐天皇から信任され恩賞認定通して地方守護有力者武士団と、強固な関係を築いていった。 尊氏鎮守府将軍となったのは前述したが、これは決しお飾り地位ではなく建武政権においては実質の最高軍事責任者だった。東北には陸奥将軍府があり、関東には鎌倉将軍府があるため、これらの地域では実際に権限行使する機会がなかったが、九州北条氏残党反乱発生した時には鎮守府将軍としての権限発動して九州武将指揮した実例がある。 研究史足利氏寄り史書梅松論』に、公家たちが「無高氏(尊氏なし)」と吹聴する描写があることから、かつては尊氏政治中枢から排斥されたとする説が主流だった。しかし、その後1978年網野善彦が、一次史料綸旨施行状研究から、尊氏鎮西軍事指揮権九州全軍指揮権)を任されていたのではないか指摘し伊藤喜良と森茂暁らも研究進めて網野説を支持した2002年には吉原弘道が、網野説を発展させて、尊氏は(九州限らず全国の)全軍指揮権持ち建武政権軍事部門責任者となっていたのではないか論述し他の研究者からも肯定的に紹介されている。吉原によれば、『梅松論』の「尊氏なし」というのは実際の状況ではなく尊氏異例の昇進公家たちが抱いた不満を現してるのではないかという。

※この「足利兄弟の重用」の解説は、「建武の新政」の解説の一部です。
「足利兄弟の重用」を含む「建武の新政」の記事については、「建武の新政」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「足利兄弟の重用」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「足利兄弟の重用」の関連用語

足利兄弟の重用のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



足利兄弟の重用のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの建武の新政 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS