足利城の戦いとは? わかりやすく解説

足利城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/29 03:44 UTC 版)

足利城」の記事における「足利城の戦い」の解説

第1次合戦関東管領山内上杉憲忠殺害した鎌倉公方足利成氏上杉氏家臣長尾氏との間で起こった。『正木文書』に収録されている享徳4年1455年5月13日足利成氏書状写には、足利義明足利城赴いたことを受け、計略めぐらせるよう岩松右京命じる旨が記されていた。また、赤堀文書』に収録されている同年8月29日書状写には赤堀政綱対し近日中上杉勢足利庄内へ進駐してくることから、軍勢整え軍議なすよう命じる旨が記されている。『真壁文書』にも真壁尚幹に対し同様の伝令があった旨が記されていたが、これらの結果、軍の対峙のみで終わったのか、合戦起こっていたのかは現状資料からは明らかにされていない第2次合戦上杉謙信佐野昌綱の間に勃発した永禄7年1564年11月上杉謙信佐野氏支配する唐沢山城攻撃するにあたり足利館林新田領などに火を放ち沼尻に築陣したという記録残されている。この結果当地守護していた長尾政長は、下野国足利衆として上杉方へ属した第3次合戦小田原北条氏下野国侵攻本格化した天正12年1584年)に勃発している。『古今消息集』に収録され4月22日北条氏勝感状写にて、足利城長尾顕長佐野宗綱戦闘があった事が記されている。 豊臣秀吉により小田原征伐なされた天正18年1590年)ごろ、足利城第4次合戦が行われていた事が示唆されており、『木島文書』『平沼兵衛所蔵文書』『宇津木文書』などにある1月28日北条氏直感状写には反町大膳亮、辻新三郎宇津木下総守らに宛てた足利城での戦功称える言葉認められている。ただし、本件に関して相手方がどこであったかについては言及なされておらず、不明となっている。

※この「足利城の戦い」の解説は、「足利城」の解説の一部です。
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