足利一族の公方とは? わかりやすく解説

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足利一族の公方

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/30 22:57 UTC 版)

公方」の記事における「足利一族の公方」の解説

鎌倉公方関東公方室町時代東国統治のために設置され鎌倉府神奈川県鎌倉市)の長。初代足利基氏第2代足利氏満第3代は足利満兼、第4代足利持氏である。永享の乱で持氏が室町幕府反抗して敗死したため、一旦滅びた。のちに持氏の子足利成氏を第5代として再興したが、成氏は享徳の乱の際に古河移ったため、これを古河公方と呼ぶ。 篠川公方篠川御所第3鎌倉公方足利満兼奥州統治のため弟の足利満直陸奥国安積郡篠川(ささがわ)(現、福島県郡山市)に派遣して成立上杉禅秀の乱以降鎌倉府立場をとるが、1440年永享12年)の結城合戦滅亡した稲村公方稲村御所第3鎌倉公方足利満兼奥州統治のため弟の足利満貞陸奥国岩瀬郡稲村(現、福島県須賀川市)に派遣して成立1438年永享10年)に永享の乱で満貞が自害したため滅亡した堀越公方長禄2年1458年)(あるいは長禄元年)、室町幕府第8代将軍足利義政は、享徳の乱幕府対立した足利成氏代わり新たな鎌倉公方として弟の足利政知関東派遣したが、箱根越えられ伊豆国田方郡堀越(ほりごえ)(現、静岡県伊豆の国市)を居所したもの2代目足利茶々丸北条早雲討たれ滅亡した古河公方享徳の乱の際に、享徳4年1455年)、鎌倉から下総国古河茨城県古河市)に移った関東公方で、初代足利成氏第2代足利政氏第3代は足利高基、第4代足利晴氏、第5代足利義氏である。晴氏が河越夜戦敗れたことから後北条氏影響力強く受けるようになり、晴氏と義氏は古河離れて後北条氏勢力範囲各地居所とする時期長かった天正10年1582年)、義氏が死去した後は後継者立たず消滅した後裔喜連川氏となった小弓公方小弓御所永正14年1517年)、第3古河公方足利高基の弟足利義明上総国真里谷(まりやつ)城主の上総武田氏擁立されて、下総国小弓城(現、千葉県千葉市)を居所したもの。自らを第2代古河公方政氏の正当な後継者であると主張し、高基に対抗した天文7年1538年)の第一次国府台合戦で義明が戦死したため滅亡した後裔古河公方系と合一して喜連川氏となった鞍谷公方鞍谷御所越前守護代朝倉氏越前守斯波氏から越前国支配奪い斯波一族のうちか名目上国主として擁し、後には客将として遇したもの。越前鞍谷(現、福井県武生市)を所領としたことから鞍谷御所などと呼ばれる江戸時代には室町幕府3代将軍足利義満の子足利義嗣の子孫とする説があったことから鞍谷公方とも呼ぶこともあるが、足利将軍家後裔であることを示す同時代の資料はない(同時代には斯波一族認識されていた)。 堺公方大永7年1527年)から享禄5年(1532年)にかけて、阿波細川氏三好氏らが擁する足利義維和泉国堺に進出し近江国逃れた室町幕府12代将軍足義晴対峙して畿内支配争ったその間、義維は「堺公方」「堺大樹」「堺武家」などと称されたが、堺を追われ阿波下った後は阿波公方呼ばれた平島公方平島御所阿波公方阿波御所四国阿波国平島(現、徳島県阿南市)に本拠置いた足利義維系統。義維の子足利義栄14代将軍となる。 越中公方1493年明応の政変遭った室町幕府10代将軍足利義材越中国射水郡放生津樹立した政権

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