足利一族の公方
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鎌倉公方(関東公方)室町時代に東国統治のために設置された鎌倉府(神奈川県鎌倉市)の長。初代は足利基氏。第2代は足利氏満、第3代は足利満兼、第4代は足利持氏である。永享の乱で持氏が室町幕府に反抗して敗死したため、一旦滅びた。のちに持氏の子の足利成氏を第5代として再興したが、成氏は享徳の乱の際に古河に移ったため、これを古河公方と呼ぶ。 篠川公方(篠川御所)第3代鎌倉公方足利満兼が奥州統治のため弟の足利満直を陸奥国安積郡の篠川(ささがわ)(現、福島県郡山市)に派遣して成立。上杉禅秀の乱以降反鎌倉府の立場をとるが、1440年(永享12年)の結城合戦で滅亡した。 稲村公方(稲村御所)第3代鎌倉公方足利満兼が奥州統治のため弟の足利満貞を陸奥国岩瀬郡の稲村(現、福島県須賀川市)に派遣して成立。1438年(永享10年)に永享の乱で満貞が自害したため滅亡した。 堀越公方長禄2年(1458年)(あるいは長禄元年)、室町幕府第8代将軍足利義政は、享徳の乱で幕府と対立した足利成氏に代わり、新たな鎌倉公方として弟の足利政知を関東に派遣したが、箱根を越えられず伊豆国田方郡の堀越(ほりごえ)(現、静岡県伊豆の国市)を居所としたもの。2代目の足利茶々丸が北条早雲に討たれて滅亡した。 古河公方享徳の乱の際に、享徳4年(1455年)、鎌倉から下総国古河(茨城県古河市)に移った関東公方で、初代は足利成氏。第2代は足利政氏、第3代は足利高基、第4代は足利晴氏、第5代は足利義氏である。晴氏が河越夜戦で敗れたことから後北条氏の影響力を強く受けるようになり、晴氏と義氏は古河を離れて、後北条氏の勢力範囲各地を居所とする時期が長かった。天正10年(1582年)、義氏が死去した後は後継者が立たず消滅した。後裔は喜連川氏となった。 小弓公方(小弓御所)永正14年(1517年)、第3代古河公方足利高基の弟足利義明が上総国真里谷(まりやつ)城主の上総武田氏に擁立されて、下総国の小弓城(現、千葉県千葉市)を居所としたもの。自らを第2代古河公方政氏の正当な後継者であると主張し、高基に対抗した。天文7年(1538年)の第一次国府台合戦で義明が戦死したため滅亡した。後裔が古河公方系と合一して喜連川氏となった。 鞍谷公方(鞍谷御所)越前守護代朝倉氏が越前守護斯波氏から越前国の支配を奪い、斯波一族のうちから名目上の国主として擁し、後には客将として遇したもの。越前鞍谷(現、福井県武生市)を所領としたことから鞍谷御所などと呼ばれる。江戸時代には室町幕府3代将軍足利義満の子足利義嗣の子孫とする説があったことから鞍谷公方とも呼ぶこともあるが、足利将軍家の後裔であることを示す同時代の資料はない(同時代には斯波一族と認識されていた)。 堺公方大永7年(1527年)から享禄5年(1532年)にかけて、阿波細川氏・三好氏らが擁する足利義維が和泉国堺に進出し、近江国に逃れた室町幕府12代将軍足利義晴と対峙して畿内の支配を争った。その間、義維は「堺公方」「堺大樹」「堺武家」などと称されたが、堺を追われ阿波に下った後は阿波公方と呼ばれた。 平島公方(平島御所・阿波公方・阿波御所)四国の阿波国平島(現、徳島県阿南市)に本拠を置いた足利義維の系統。義維の子足利義栄は14代将軍となる。 越中公方1493年に明応の政変に遭った室町幕府10代将軍足利義材が越中国射水郡放生津で樹立した政権。
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