足利将軍家連枝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 21:06 UTC 版)
足利将軍家の連枝として代表的な存在として鎌倉公方家が挙げられるが、室町時代前期の段階において室町幕府が公式に認めていた「御連枝」は足利義満の弟である満詮の系統と息子の義嗣の系統だけであった。そのうち、満詮の子は全て出家してしまい、義嗣は兄の義持に滅ぼされてしまったために早い時期に御連枝は断絶してしまった(鞍谷公方は義嗣の子孫と言われているが、実際には斯波氏の一族であった)。足利義量の没後は僧になっていた義持の弟(義円→義教)を還俗させて御連枝として継承させることで足利将軍家の断絶は回避された。御一家創設の背景の1つとして、こうした御連枝の断絶があったとされている。
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