足利尊氏と足利直義の対立とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 足利尊氏と足利直義の対立の意味・解説 

足利尊氏と足利直義の対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/16 22:21 UTC 版)

薩埵山体制」の記事における「足利尊氏と足利直義の対立」の解説

室町幕府初代将軍足利尊氏と弟の足利直義対立深刻化し正平4年/貞和5年1349年)、尊氏鎌倉においていた嫡男義詮後継者として京都呼び戻し、その弟である次男の基氏を鎌倉公方として下して鎌倉府として機能させた。当時関東執事義詮補佐してきた上杉憲顕高師冬そのまま留任し義詮時代同様に基氏の養育補佐行った。ところが、翌年に憲顕の従兄弟である上杉重能師冬従兄弟である尊氏執事高師直殺害されると、師直庇護する尊氏直義の間で衝突本格化して観応の擾乱へと発展した。 憲顕の攻撃受けて鎌倉から甲斐へ落ちのびた師冬諏訪直頼によって討ち取られると、憲顕は直義鎌倉迎え入れて基氏を奉じて尊氏対抗しようとした。だが、その計画知った尊氏正平6年/観応2年1351年)に鎌倉向けて兵を発し12月駿河薩埵峠直義軍と激突した。この薩埵山の戦い尊氏軍は苦戦したものの、尊氏から見れば外様であった東国有力な武士たちが尊氏方についたため、直義軍は総崩れとなり、直義翌年2月急死した。憲顕は新田氏など反尊氏勢力結集して武蔵野合戦臨んだが、敗走した

※この「足利尊氏と足利直義の対立」の解説は、「薩埵山体制」の解説の一部です。
「足利尊氏と足利直義の対立」を含む「薩埵山体制」の記事については、「薩埵山体制」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「足利尊氏と足利直義の対立」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「足利尊氏と足利直義の対立」の関連用語

1
薩埵山体制 百科事典
30% |||||

足利尊氏と足利直義の対立のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



足利尊氏と足利直義の対立のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの薩埵山体制 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS