足利尊氏からの評価とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 足利尊氏からの評価の意味・解説 

足利尊氏からの評価

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)

後醍醐天皇」の記事における「足利尊氏からの評価」の解説

室町幕府初代征夷大将軍足利尊氏は、後醍醐天皇をよく肯定した。よくそれを表す文書として、後醍醐崩御百日目に尊氏著した後醍醐院百ヶ日御願文」 が知られ、以下に大意を示す。 古来より、大恩に報いるとがないのは徳が無いと申します。かの『後漢書』楊震伝」注に言うように、雀のような小鳥でさえ宝石の環をくわえて仁愛感謝するのに、何も言わず恩を返さず、いったい我ら全ての民草陛下黄金のような君徳忘れることがありましょうか。いいえ、決してありません。伏して考え申し上げるに、後醍醐院は期に応じて運を啓かれ、聖王たる「出震向離」の吉相お持ちになり、その功は神にも等しく、徳は天にもお達しになられていましたそれゆえ陛下代々の諸帝のご遺徳をお集めになり、君臨すること太陽のごとく、我ら仰ぎ見ることのごとくの王者なられたのです。またそれゆえ陛下は古の聖王たちの栄え事業お引き継ぎになり、神武天皇以来このかた90余代の遙かな系図受け継がれ元応以降18年ご在位をお保ちになったのです。 陛下は、外には王道大化をお成し遂げなりましたが、今の政治の道の本源はまさにここにありました。内には仏法隆盛をお図らいになりましたが、その聖者お心をどうして貴ばずにいられましょうか陛下は神がかった書の才をお持ちになり、「書聖王羲之にも迫るという唐太宗超えるほどのものでいらっしゃいました。陛下麗しい笙の響きさえあれば、いまさら高祖伝説の笛を求める必要がありましょうや。陛下和歌の才はまるで歌神素盞鳴尊すさのおのみこと)のようで、我が国古来歌風思い起こさせられました。陛下琵琶神器玄象」(げんじょう)を取って奏でる秘曲調べは、その初代使い手である「聖王村上帝演奏にも等しい。究めるべき道をすべて究め修めるべき徳をすべて修めた、それが後醍醐院というお方いらっしゃいました。 しかるに、しばらく京の輝かし宮廷辞して、はるか吉野都に行幸なさいましたその様は、龍馬帰らず聖なる白雲そびえ立つこと峻厳なごとく。天子の輿は久しく外に留まり、ついに旅の中で崩御なされました聖天子のようなではなく無念のうちに死んだ諸帝のように崩御なさったのは、ああ、なんとお痛ましいことでしょうか。 ここに、陛下弟子であるわたくしは、畏れ多くも亜相大納言)に進み征夷大将軍の武職に至りました。この運の巡り合わせは、漢という国が興った歴史のような幸運思い起こさせます弓矢を袋に入れて武器収めて)、ただ安らかな平和を乞い願い国家護ることで君にお仕えし、民を労ることで仁義尽くしたい思っております。 わたくしは戦功しか取り柄がない者ではありますが、ただそれのみによって、ここまで幸運な繁栄為すことができました。わたくしのような弱輩が、ここまで力を得ることができた理由よくよく考え申し上げてみますと、まさに、先帝陛下巨大なであるおおとり)のように力強く羽ばたきになったことに端を発しているに違いありません。 陛下の穏やかで優しいお言葉が、今もなおわたくしの耳の奥底に留まっております陛下慕い敬うあまりに胸が苦しくなるこの気持ちを、いったいどうした書き尽くすことができましょうか。わたくしが授かった恩恵無窮であり、感謝して報いることを決し疎かにはできません。 まず、七度七日供養つらつらと行い追福申し上げました。今、時の移り変わり惜しみ写経いたしました。かつて、勝力菩薩陶弘景入滅し百日後に、残され弟子たち慕い上げ唐太宗崩御して百日後、官吏たちは先帝余芳従ったと言われています。しかし、はたしてその程度で済ますことができるでしょうか。 すなわちここに、図絵胎蔵界曼荼羅一鋪・金剛界曼荼羅一鋪、図絵観世音菩薩一鋪・摺写大日経三巻理趣経四巻・随求陀羅尼三巻奉り妙法蓮華経十部転読させ、さらに五箇禅室加え十人の僧に供養を行わせ、非人救済実施しました等持院寄付行い密教儀式の座も造り、前大僧正法印大和尚主催読経を行わせました。数多く都人・僧・公卿殿上人らが集まり陛下菩提弔いました。全ての景色荘厳で、陛下威徳相応しいものです。 陛下聖霊は、この千五百秋神州ある日本より出でて、すみやかに阿彌陀如来宝座へと向かわれるでしょう三十六天の仙室へは向かわず直ち常寂光土永遠悟り得た真理絶対界へと到達なさるでしょう。そして、仏への敬い足りない者に至るまで、あらゆる民を八正道へ、すなわち涅槃へ至るための正しい道へとお導きになるでしょう弟子 征夷大将軍正二位権大納言源朝臣尊氏 敬白 — 足利尊氏、「後醍醐院百ヶ日御願文」 亀田俊和主張によれば尊氏から後醍醐への敬慕実体伴ったものであったという。亀田は、建武政権諸政策は、尊氏室町幕府多くそれを受け継いでいた、と断定した。たとえば、後醍醐は、土地給付命令文書に追加文書雑訴決断所施行牒)を付けて誤りがないか検査をすると共に強制執行導入し自前の強い武力持たない弱小武士寺社でも安全に土地拝領できるシステム作った(ただし、後醍醐自身建武元年1334年)頃には既に施行牒を付けず綸旨のみで裁断行い始めている上に、「建武以後綸旨は、容易く改めてはならない」という旨の綸旨発しており、自分綸旨乱発し、しかもその内容改変されたり誤っていたりすることを認めている)。これは、執事高師直を介して足利尊氏にも受け継がれ、のち正式に幕府基本法一つになったという。 ただし、尊氏直義理想政治参考としたのは建武政権ではなく建武式目見えるように「北条義時北条泰時執権政治であった

※この「足利尊氏からの評価」の解説は、「後醍醐天皇」の解説の一部です。
「足利尊氏からの評価」を含む「後醍醐天皇」の記事については、「後醍醐天皇」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「足利尊氏からの評価」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「足利尊氏からの評価」の関連用語

足利尊氏からの評価のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



足利尊氏からの評価のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの後醍醐天皇 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS