足利尊氏からの評価
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室町幕府初代征夷大将軍足利尊氏は、後醍醐天皇をよく肯定した。よくそれを表す文書として、後醍醐崩御百日目に尊氏が著した「後醍醐院百ヶ日御願文」 が知られ、以下に大意を示す。 古来より、大恩に報いることがないのは徳が無いと申します。かの『後漢書』「楊震伝」注に言うように、雀のような小鳥でさえ宝石の環をくわえて仁愛に感謝するのに、何も言わず恩を返さず、いったい我ら全ての民草が陛下の黄金のような君徳を忘れることがありましょうか。いいえ、決してありません。伏して考え申し上げるに、後醍醐院は期に応じて運を啓かれ、聖王たる「出震向離」の吉相をお持ちになり、その功は神にも等しく、徳は天にもお達しになられていました。それゆえ、陛下は代々の諸帝のご遺徳をお集めになり、君臨すること太陽のごとく、我らが仰ぎ見ること雲のごとくの王者となられたのです。またそれゆえ、陛下は古の聖王たちの栄える事業をお引き継ぎになり、神武天皇以来このかた90余代の遙かな系図を受け継がれ、元応以降、18年のご在位をお保ちになったのです。 陛下は、外には王道の大化をお成し遂げになりましたが、今の政治の道の本源はまさにここにありました。内には仏法の隆盛をお図らいになりましたが、その聖者のお心をどうして貴ばずにいられましょうか。陛下は神がかった書の才をお持ちになり、「書聖」王羲之にも迫るという唐太宗を超えるほどのものでいらっしゃいました。陛下の麗しい笙の響きさえあれば、いまさら漢高祖の伝説の笛を求める必要がありましょうや。陛下の和歌の才はまるで歌神の素盞鳴尊(すさのおのみこと)のようで、我が国古来の歌風を思い起こさせられました。陛下が琵琶の神器「玄象」(げんじょう)を取って奏でる秘曲の調べは、その初代の使い手である「聖王」村上帝の演奏にも等しい。究めるべき道をすべて究め、修めるべき徳をすべて修めた、それが後醍醐院というお方でいらっしゃいました。 しかるに、しばらく京の輝かしい宮廷を辞して、はるか吉野の都に行幸なさいました。その様は、龍馬が帰らず、聖なる白雲がそびえ立つこと峻厳なごとく。天子の輿は久しく外に留まり、ついに旅の中で崩御なされました。聖天子のような死ではなく、無念のうちに死んだ諸帝のように崩御なさったのは、ああ、なんとお痛ましいことでしょうか。 ここに、陛下の弟子であるわたくしは、畏れ多くも亜相(大納言)に進み、征夷大将軍の武職に至りました。この運の巡り合わせは、漢という国が興った歴史のような幸運を思い起こさせます。弓矢を袋に入れて(武器を収めて)、ただ安らかな平和を乞い願い、国家を護ることで君にお仕えし、民を労ることで仁義を尽くしたいと思っております。 わたくしは戦功しか取り柄がない者ではありますが、ただそれのみによって、ここまで幸運な繁栄を為すことができました。わたくしのような弱輩が、ここまで力を得ることができた理由をよくよく考え申し上げてみますと、まさに、先帝陛下が巨大な聖鳥である鴻(おおとり)のように力強くお羽ばたきになったことに端を発しているに違いありません。 陛下の穏やかで優しいお言葉が、今もなおわたくしの耳の奥底に留まっております。陛下を慕い敬うあまりに胸が苦しくなるこの気持ちを、いったいどうしたら書き尽くすことができましょうか。わたくしが授かった恩恵は無窮であり、感謝して報いることを決して疎かにはできません。 まず、七度の七日供養をつらつらと行い、追福を申し上げました。今、時の移り変わりを惜しみ、写経もいたしました。かつて、勝力菩薩陶弘景が入滅して百日後に、残された弟子たちは慕い上げ、唐太宗が崩御して百日後、官吏たちは先帝の余芳に従ったと言われています。しかし、はたしてその程度で済ますことができるでしょうか。 すなわちここに、図絵胎蔵界曼荼羅一鋪・金剛界曼荼羅一鋪、図絵観世音菩薩一鋪・摺写大日経三巻・理趣経四巻・随求陀羅尼経三巻を奉り、妙法蓮華経十部を転読させ、さらに五箇の禅室を加え、十人の僧に供養を行わせ、非人救済も実施しました。等持院に寄付も行い、密教の儀式の座も造り、前大僧正法印大和尚の主催で読経を行わせました。数多くの都人・僧・公卿・殿上人らが集まり、陛下の菩提を弔いました。全ての景色が荘厳で、陛下の威徳に相応しいものです。 陛下の聖霊は、この千五百秋之神州である日本より出でて、すみやかに阿彌陀如来の宝座へと向かわれるでしょう。三十六天の仙室へは向かわず、直ちに常寂光土、永遠の悟りを得た真理の絶対界へと到達なさるでしょう。そして、仏への敬いが足りない者に至るまで、あらゆる民を八正道へ、すなわち涅槃へ至るための正しい道へとお導きになるでしょう。 弟子 征夷大将軍正二位権大納言源朝臣尊氏 敬白 — 足利尊氏、「後醍醐院百ヶ日御願文」 亀田俊和の主張によれば、尊氏から後醍醐への敬慕は実体を伴ったものであったという。亀田は、建武政権の諸政策は、尊氏の室町幕府も多くそれを受け継いでいた、と断定した。たとえば、後醍醐は、土地の給付の命令文書に追加の文書(雑訴決断所施行牒)を付けて、誤りがないか検査をすると共に、強制執行権を導入し、自前の強い武力を持たない弱小な武士・寺社でも安全に土地を拝領できるシステムを作った(ただし、後醍醐自身は建武元年(1334年)頃には既に施行牒を付けず綸旨のみで裁断を行い始めている上に、「建武以後の綸旨は、容易く改めてはならない」という旨の綸旨を発しており、自分が綸旨を乱発し、しかもその内容が改変されたり誤っていたりすることを認めている)。これは、執事高師直を介して足利尊氏にも受け継がれ、のち正式に幕府の基本法の一つになったという。 ただし、尊氏や直義が理想と政治の参考としたのは建武政権ではなく、建武式目に見えるように「北条義時・北条泰時の執権政治」であった。
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