足利尊氏論とは? わかりやすく解説

足利尊氏論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 18:01 UTC 版)

中島久万吉」の記事における「足利尊氏論」の解説

1921年大正10年)、中島は、清見寺静岡県静岡市清水区)にある足利尊氏自作尊氏木造拝観し、その感想文俳句同人雑誌『倦』に投稿した当時皇国史観に基づき後醍醐天皇背いた足利尊氏謀反人断定されていたが、中島尊氏足利時代室町時代)を再評価すべき旨、その感想文記していた。 その記事掲載されてから13年後の1934年昭和9年)、中島感想文雑誌現代2月号に転載される。同年2月3日衆議院予算総会において、栗原彦三郎議員野党国民同盟所属)が、この転載記事利用して逆賊たる尊氏評価するような者が大臣の職にあることは「日本の教育行政にとって望ましくない」と政府教育行政批判した。この場は、中島転載知らなかった釈明し陳謝し収まった。 しかし、軍部出身議員右派議員多く擁していた貴族院において、尊氏論は再燃する。これら、軍部出身議員右派議員は、斎藤内閣軍縮姿勢中島主導した政友会民政党連携による軍部抑制策に不満を持っており、政府攻撃の隙を窺っていたからである。尊氏論は、その格好攻撃材料となった中島攻撃主導したのは、菊池武夫貴族院議員予備役陸軍中将男爵南朝功臣菊池氏の子孫)である。菊池は、逆賊尊氏礼賛することは輔弼にあたる大臣の任に堪えないとして、斎藤首相にしかるべき措置」を取るべきと、中島商工大臣罷免迫った斎藤首相は、すでに中島陳謝により決着済みであり、議論場違いであることを指摘した。この答弁に不満を述べた三室戸敬光議員子爵)は、さらに中島爵位辞退をも要求し斎藤政治責任追及した議会内外でも右翼執拗な攻撃続き宮内省にも批判投書殺到したため、中島商工大臣辞任せざるを得なくなった爵位辞退せず)。この足利尊氏論に関わる一連の顛末は、政治対す軍部の介入右翼台頭勢い与え翌年天皇機関説事件要因ともなる。

※この「足利尊氏論」の解説は、「中島久万吉」の解説の一部です。
「足利尊氏論」を含む「中島久万吉」の記事については、「中島久万吉」の概要を参照ください。

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