足利尊氏との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)
詳細は「建武の乱」を参照 建武2年(1335年)、北条氏残党の北条時行が起こした中先代の乱の鎮圧のため勅許を得ないまま東国に出向いた足利尊氏が、乱の鎮圧に付き従った将士に鎌倉で独自に恩賞を与えた。これを新政からの離反と見なした後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じ、義貞は箱根・竹ノ下の戦いでは敗れるものの、京都で楠木正成や北畠顕家らと連絡して足利軍を破った。しかし、「連絡して」とは言うものの、実際に足利軍を破ったのは後醍醐直属軍とも表せる新田軍や楠木軍ではなく、あくまでも奥州の北畠軍であり、建武政権に大きな政策転換を迫るものであった。つまり、後醍醐直属軍を倒した足利の「鎌倉小幕府」軍が、北畠の「奥州小幕府」軍に敗れたのであり、「幕府を置かない武家の活用」という後醍醐の政権構想は失敗に終わったのである。 『梅末論』によれば、このとき、楠木正成は勝利した側であるにも関わらず、後醍醐天皇に尊氏との間の早期講和を進言した。しかし、公家たちから退けられてしまった。 尊氏は九州へ落ち延びるが、翌年に九州で態勢を立て直し、後に北朝となる持明院統の光厳上皇の院宣を得たのちに再び上洛を目指した。尊氏率いる足利軍は、新田・楠木軍に湊川の戦いで勝利し、正成は討死し義貞は都へ逃れた。
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