歌風
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第一歌集『波動』を上梓した42歳の川島喜代詩はその後記のなかで、「なぜ歌をつくるのか」と自らに問い「歌は生のあかし・・・。歌をつくる営みは世界の深奥とかかわる、この5句31音の詩型が世界への飛翔を可能にしてくれる・・・。歌が生をささえる」と述べている。 20代はじめから佐藤佐太郎の短歌に親しみ、「歩道」に入門した川島喜代詩は、正師の「純粋短歌」の写実に徹し、都会的な景物から次第に自然、世界の事物を見る目を深め、天性のしなやかな語調で自らの生の憂いをうたう短歌を詠んだ。「物を確かに見て、確かに現す」という写実の骨法は次第に深化し、後年には「見ることは気づくこと、こころを留めることであり、うたは物にこころをあずけること、人のこころを温めるもの、こころの器である」と言っている。 川島喜代詩の作歌は20代後半から70代後半にまで及んでいる。出版された7冊の歌集の総歌数は、3337首である。また詠出と歌集刊行の時期に10年ほどの遅れがあって、晩年の未出版の歌数は平成7年(69歳)から平成15年(77歳)までの8年間、800数十首にのぼり未刊のまま残された。
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歌風
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昭和の歌壇とはほとんど関わりを持たずにあったが、正岡子規の衣鉢をつぐ歌人の姿を吉野に見て取れると評された。
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歌風
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南朝歌人は全て二条派に属するので、全体として特色ある作品が存在する訳ではない。特に四季や恋などは伝統に沿った技巧的な詠が多いが、羇旅・雑・哀傷の詠には「吉野朝の悲歌」と呼ばれるような、南朝の衰勢著しい境遇の中で如何とも挽回しがたい天命への悲憤を込めた切実な抒情を窺うことが出来る歌もある。平淡な二条派歌風の底に潜むこうした悲痛極まりない感慨は、二十一代集にはない深遠な蘊奥をこの集に賦与している。また同時期に編まれた『神皇正統記』との対比で、「神皇正統記は文の新葉和歌集であり、新葉和歌集は歌の神皇正統記である」とも言われる。 以下は新待賢門院(阿野廉子)が後醍醐天皇の死を悼んで詠んだ2首である。 後醍醐天皇かくれさせ給て又の年の春、花を見てよませ給ける新待賢門院 時しらぬなげきのもとにいかにしてかはらぬ色に花の咲らむ つはもののみだれによりて、吉野の行宮をもあらためられて、次の年の春、塔尾の御陵にまうで給はむとて、かの山にのぼらせ給けるに、蔵王堂をはじめて、さらぬ坊舎どもも、みな煙と成にけれど、御陵の花ばかりは昔にかはらず咲て、よろづ哀におぼえ給ければ、一ふさ御文の中にいれて、たまはせ侍るとて、 みよし野は見しにもあらず荒にけりあだなる花は猶のこれども — 巻第19・哀傷歌
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歌風
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『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に93首が入集。その歌風は『古今和歌集』の歌風を忠実に継承し、理知的で優美な詠風を示す。 平安時代中期において活躍した女流歌人として、和泉式部と並び称されている。『俊頼髄脳』では赤染衛門よりも和泉式部が高く評価されたが、鴨長明『無名抄』では赤染衛門の方が高く評価された。
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歌風
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遍昭は『古今和歌集』仮名序において、紀貫之が「近き世にその名きこえたる人」として名を挙げた六歌仙の一人である。貫之による遍昭の評は以下の通りである。 僧正遍昭は、歌のさまは得たれどもまことすくなし。(現代語訳:僧正遍昭は、歌の風体や趣向はよろしいが、真情にとぼしい。) 遍昭の歌風は出家前と出家後で変化しており、出家後は紀貫之が評したように物事を知的にとらえ客観的に描き出す歌を多く作ったが、出家前には情感あふれる歌も詠んでいる。特に『百人一首』にもとられている「天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ をとめの姿しばしとどめむ」には遍昭の真情が現れているといえよう。『古今和歌集』(16首)以下の勅撰和歌集に35首入集。家集に『遍照集』があるが、三代集から遍昭作の歌をひいて編集したもので、遍昭の独自性はない。 すゑの露 もとのしづくや 世の中の おくれ先だつ ためしなるらん 天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ
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歌風
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彼は『万葉集』第一の歌人といわれ、長歌19首・短歌75首が掲載されている。その歌風は枕詞、序詞、押韻などを駆使して格調高い歌風である。また、「敷島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ まさきくありこそ」という言霊信仰に関する歌も詠んでいる。長歌では複雑で多様な対句を用い、長歌の完成者とまで呼ばれるほどであった。また短歌では140種あまりの枕詞を使ったが、そのうち半数は人麻呂以前には見られないものである点が彼の独創性を表している。 人麻呂の歌は、讃歌と挽歌、そして恋歌に特徴がある。賛歌・挽歌については、「大君は 神にしませば」「神ながら 神さびせすと」「高照らす 日の皇子」のような天皇即神の表現などをもって高らかに賛美、事績を表現する。この天皇即神の表現については、記紀の歌謡などにもわずかながら例がないわけではないが、人麻呂の作に圧倒的に多い。また人麻呂以降には急速に衰えていく表現で、天武朝から持統朝という律令国家制定期におけるエネルギーの生み出した、時代に規制される表現であると言える。 恋歌に関しては、複数の女性への長歌を残しており、かつては多くの妻妾を抱えていたものと思われていた(斎藤茂吉などによる見解)。近時は恋物語を詠んだもので、人麻呂の実体験を歌にしたものではないとの理解が大勢である。ただし、人麻呂の恋歌的表現は共寝をはじめ性的な表現が少なくなく、窪田空穂が人麻呂は夫婦生活というものを重視した人であるとの旨を述べている(『万葉集評釈』)のは、歌の内容が事実・虚構であることの有無を別にして、人麻呂の表現のありかたをとらえたものである。 次の歌は枕詞、序詞を巧みに駆使しており、百人一首にも載せられている。ただし、これに類似する歌は『万葉集』巻11・2802の異伝歌であり、人麻呂作との明証はない。『拾遺和歌集』にも採られているので、平安以降の人麻呂の多くの歌がそうであるように、人麻呂に擬せられた歌であろう。 万葉仮名足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾之 長永夜乎 一鴨將宿平仮名あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む訳夜になると谷を隔てて独り寂しく寝るという山鳥の長く垂れた尾のように、長い長いこの夜を、私は独り寂しく寝るのだろう。 また、『古今和歌集』(7首)以下の勅撰和歌集に248首が入集している。
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歌風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 03:50 UTC 版)
戦中派としての現実に対する批判精神が作歌の根底にあり、それでいて戦後短歌の激しい変化にも動じない倫理性が貫かれている[要出典]。また、「旧派」と呼ばれる歌人の中に新しい胎動があることを指摘した「近代歌誌探訪」など歌論、評論も知られている。なお、作歌には現代仮名遣いを用いている。また、本人は、晩年「作歌をいくらか楽しむようになった」といっている[要出典]。
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歌風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 01:42 UTC 版)
近年、折口と同様の句読点、空き字等を使用、また長歌と短歌を組み合わせた組歌を発表するなど意欲的な取り組みをしている。伝統的な詠法に則り、定型を守り、調べが清らかで、確立している。
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