歌集発行への執念
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1954年2月初めの大雪の降る日であった。山名康郎は札幌医科大学附属病院の看護師からすぐに病院に来て欲しいとの連絡を受けた。すわ容体急変かと思い病院に駆け付けたところ、病状に特変は無かった。ふみ子は山名に歌集出版の話を切り出した。ふみ子は生きている間に歌集を出したいと願っていたのである、山名はとにかく作品をまとめてみるようにアドバイスした。ふみ子はすでに歌集出版に向けて準備をしていたと見られ、一週間もたたないうちに自撰の歌集がまとめられた。ふみ子は自ら詠んだ歌に推敲を加えた上に、歌集を一種の物語性を持たせるように編集していた。 歌集出版に向けて課題となったのは、序文を誰に書いて貰うのかということであった。ふみ子は新墾の主催者である小田観螢に頼むのが筋なのだけどと言いながら、本当は石川達三か井上靖に頼みたいと漏らしたと伝えられている。ふみ子の希望を聞いた山名はびっくりした。石川達三も井上靖も全くつてはない。その時、北海道新聞に連載小説を書いていた川端康成の名前が挙がったという。山名は北海道新聞の記者であり川端康成の連載小説の担当者であった。川端康成ならばつてが効くかもしれないと考え、山名はふみ子に川端の心を動かすような手紙を添えて、歌集のノートを送ってみるように勧めたと証言している。 一方、前述のように川端康成に序文を書いて貰うことが少女時代からのふみ子の夢であったという証言もある。いずれにしても序文執筆を川端康成に依頼することとなり、ふみ子は3月の初めに「花の原型」という仮題をつけた歌集案のノートと序文依頼の手紙を川端に送った。また川端の他に、ふみ子は東京家政学院時代の恩師・池田亀鑑にも序文を依頼していた。池田には3月半ば頃、川端と同じく「花の原型」という仮題をつけた歌集案のノートと、ふみ子の序文依頼の手紙が送られた。しかし運が悪いことに池田は前年から体調悪化が著しく、ふみ子の依頼にすぐに応じることは出来なかった。それでも池田は序文執筆に意欲を見せ、実際に執筆を進めていたが、結局7月に出版された歌集「乳房喪失」への掲載は間に合わなかった。 序文の依頼については川端康成からも池田亀鑑からもなかなか返事が来ない。そうこうするうちに病状は次第に悪化していた。やむなく序文無しで歌集出版の話を進めていくことになった。ふみ子がまとめ上げた歌集の題名については、ふみ子は「美しき独断」、山名康郎は「真紅の馬」そしてふみ子と山名の歌友である宮田益子は「赤い幻暈」を候補とした。それぞれふみ子の詠んだ歌から採った題名であったが、結局山名の意見の「真紅の馬」を歌集の題名とすることになった。この時点で課題となっていたのは、歌集の発行に要する資金をどのように調達するかであった。
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