歌麿「雪月花」三部作のひとつ
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「深川の雪」の記事における「歌麿「雪月花」三部作のひとつ」の解説
「品川の月」(所蔵:米国・フリーア美術館)、「吉原の花」(所蔵:米国・ワズワース・アセーニアム美術館)との、「雪月花」三部作といわれている。「品川の月」が天明8年(1788年)頃、「吉原の花」が寛政3,4年(1791-92年)頃、「品川の月」が享和から没年にかて(1801-06年)と制作時期が大きく隔たる。また大きさも不統一で、後の作品のほうが大きい。当初から三部作の構想があったか不審だが、「品川の月」上部やや右の画中座敷の欄間に掲げられた書額に、大田南畝による「てる月の鏡をぬいて樽まくら 雪もこんこん 花もさけさけ」と、雪月花を予告する狂歌が記されている。三部作を栃木で描いたか、江戸で描いて送ったかについては不明だが、これほど大きな絵を江戸から送るのは負担がかかり、栃木に歌麿の作品が複数伝わることから、前者の可能性が高い。 存在が確認できる最古の記録は、明治12年(1879年)栃木の定願寺で開かれた展示会の小冊子で、そこに「雪月花図紙本大物 三幅対 善野氏蔵」とある。「善野氏」とは「釜伊」の釜屋伊兵衛とされるが、栃木には他にも本家の「釜喜」と「釜佐」とを加えた三家の善野家があったといい、あるいは三家とも三部作の制作に関わっていたとも考えられる。実際、「品川の月」前景右から2人目の女性と「深川の雪」前景左から3人目の女性に、善野家共通の家紋である九枚笹の紋がある。栃木と歌麿を結びつけたのは、歌麿と狂歌を通じて繋がりのある通用亭徳成(釜喜四代目善野喜兵衛)が尽力したと推定されており、三部作の制作にも関与したと考えられる。三作とも落款・印章が無いのが大きな謎とされるが、これは善野家をはじめとする栃木の有力者が複数スポンサーとして関係し、町の共有物に近い扱いだったと想定される。祭礼など共同体にとって特別な行事の折に寺社などの広い空間で公開されたとすると、作者の明記はかえって邪魔ともとれるからである。 描かれているのが深川だと判断できるのは、画面上部右の前屈みで大きな袋を担いだ女性の存在である。これは遊女として呼ばれた芸者のために、客と過ごす閨の寝具を抱主の置屋(深川では「子供屋」)から料亭に運ぶ「通い夜具」を表しており、当時の吉原や品川にはない深川独特の風習である。その前にいて振り返る女は、黒塗りの三味線箱を持つ「箱屋」である。本来は共に男性の役割だが、美人画の歌麿らしく女性として描かれている。化粧法としては、当時最先端の笹色紅がふんだんに用いられている。同時代の浮世絵版画では見かけない化粧法だが、歌麿の肉筆画には「更衣美人図」(出光美術館蔵)や「文読む美人図」(大英博物館蔵)など、同様の美人図が複数確認できる。
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