歌麿の死から幕末へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 08:57 UTC 版)
文化3年(1806年)、歌麿が急死したが、大衆は未だ歌麿の美人画を求めており、そこに菊川英山が歌麿晩年風の美人画で登場、若干弱くはかなげな女性を描いて人気を得たが、文政になると、大衆は歌川国貞、渓斎英泉の描く@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}粋で婀娜っぽい美人画[要検証 – ノート]を好むようになっていった。一方、文政末期には歌川国芳が『水滸伝』の登場人物をシリーズで描き、空前の水滸伝ブームを巻き起こしたほか、武者絵、美人画、戯画など多方面に活躍したほか、葛飾北斎や歌川広重らによって従来の浮絵とは異なる風景画が描かれるようになった。また、安政6年(1859年)に横浜が開港されると、歌川貞秀らは横浜絵を制作、明治初期にかけて一大ブームとなった。
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