歌集出版に向けての葛藤
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 06:13 UTC 版)
「中城ふみ子」の記事における「歌集出版に向けての葛藤」の解説
これまで無名の一地方歌人に過ぎなかったふみ子であったが、「短歌研究」特選、続いて川端康成の推薦を受けて角川書店の「短歌」にも作品の発表がなされ、一躍歌壇の寵児となった。これまでは地元の歌友や親族のみが出入りしていた病室はにわかに人の出入りが激しくなり、全国各地の短歌愛好者からの手紙が殺到した。ふみ子宛の手紙の中には葛原妙子、五島美代子といった当時の著名な女流歌人の名前もあった。 しかし病状は確実に悪化の一途を辿っていた。死後に行われた解剖によれば左右両肺全体にわたって粟粒状に癌は転移していた。その他胸骨への骨転移、皮膚、卵巣へも転移していた。前述のように4月末以降ふみ子は常に微熱に悩まされ、不眠症にも罹っていた。苦痛のあまりに自死を考えたこともあったが、ふみ子は自殺を思いとどまり、最後まで自らの生、そして死と向き合い続けた。 灯を消してしのびやかに隣に来るものを快楽(けらく)の如くに今は狎らしつ 夜、死がすぐ隣までやって来ていることを感じながらも、その死ですら快楽のように自らに狎らしつけているという、まさに死神とも同衾したかのごとくに詠み切った。 ふみ子と中井英夫との間の文通は続いていた。編集者として中井はふみ子に容赦ない一面を見せながらも、きわめて細やかな心遣いも見せた。ふみ子は編集者としての厳しい姿と細やかな心遣いに次第に心を開き、中井のことを「あしながおじさん」と呼ぶようになり、中井もまたふみ子のことを妹のような感情を抱くようになっていた。 中井が編集者としてふみ子に対して厳しい判断を示したのは、文通開始当初に短歌誌への二重投稿を戒めたこと、そして「短歌研究」6月号に掲載するために求めた30首詠に対して、出来の不備を指摘して書き直しを要求したこと、そして最大の懸案はふみ子在世中の刊行を目指した歌集の題名についてであった。二重投稿についてはふみ子は中井の指摘に納得し、30首詠は前述のように推敲を重ねた上で中井のもとに再送付され、「短歌研究」6月号に「優しき遺書」として発表され、高い評価を得た。しかし歌集の題名問題については簡単に解決がつかなかった。ふみ子が中井が提案した「乳房喪失」に強く反対したのである。 ふみ子が「乳房喪失」という題名に強く反対した理由は、まず自分の裸身を曝け出すようなものだと感じたためと言われている。もう一つ、ふみ子は歌集を子どもたちに残してあげられる唯一の遺産であると考えていたことが挙げられる。子どもたちが読むであろう母の遺作集の題名が「乳房喪失」なのは、やりきれないということである。 遺産なき母が唯一のものとして残しゆく「死」を子らは受取れ ふみ子最晩年に詠まれた歌のひとつで、「死」は「詩」を掛けた表現とも言われている。 またふみ子は7月に刊行された歌集「乳房喪失」のあとがきには、「遺産もたぬ母が子どもたちに残す歌」と記し、「将来、母を批判せずには置かぬであろう子どもたちの目に偽りのない母の像を結ばせたい希い」が、歌集を作る動機になったとしている。 ふみ子は中井主導で刊行されることになった歌集の題名について、中井が五十首応募の題名と同じ「乳房喪失」にしたいと考えていることを知り、嫌であるとはっきりと拒絶した。それに対して中井はふみ子が題名に拒絶感を持つこと自体は理解できるとしつつも、どうしても「乳房喪失」でなければ駄目だとの判断を示し、あと書きに「題名は気が進まないものの、出版社の勧めに従った」と追記するのはどうかと提案した。 ふみ子の題名に対する強い拒絶感を見た歌友たちは中井に対して直接交渉を試みた。歌友の一人は中井に電話を掛けて翻意を促し、また別の歌友は北海道からわざわざ上京するに至った。しかし中井は判断を曲げることは無く、5月末にはふみ子はやむなく受け入れることにした。なお実際に出版された歌集「乳房喪失」の初版あと書きの付記に、作者の意に反し、出版社の意向で題名が付けられたことが明記されていたが、ふみ子の中井宛の最後の手紙の中で、推敲の依頼とともに「乳房喪失」の題の良さがようやく理解できたことと、あと書きの付記は必要ないとの意向が示されたため、再版以降は外されている。 歌集の題名の件が一段落した後、歌集出版に向けて最後のハードルとなったのは川端康成に改めて依頼しようと考えていた序文のことであった。中井は鎌倉の川端宅をしばしば訪問して交渉を続けていた。川端はふみ子の処女歌集のために「短歌」6月号に掲載した推薦文の手直しを行うこと自体は了解したものの、連載を複数抱え多忙を極めており、時間がなかなか取れなかった。結局中井は川端の手直しを待つか、それとも推薦文をそのまま載せることにするのか、手直しを待てば7月10日、そのままで良いのならば6月20日には本が出るとの情報とともにふみ子に説明し、どちらが良いのか決断を求めた。 6月14日の病状記録には放射線治療を実施してきた左側鎖骨上窩部、そして付近のリンパ節に腫大が認められるようになったとの記述がある。癌の病状が確実に進行していたふみ子にはもう、残された時間はわずかであった。ふみ子は来月まではとても待てないので、早急に出版して欲しいと願った。
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