歌集「遠花火」出版と現代短歌女流賞受賞
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「大塚陽子」の記事における「歌集「遠花火」出版と現代短歌女流賞受賞」の解説
野原水嶺が離婚問題で裁判となっている頃、陽子は国立十勝療養所で仕事に打ち込み、1961年には道東初の和文タイプ一級の資格を取った。夫、水嶺は主宰する短歌結社、「辛夷」に打ち込んでいた。歌誌の編集は歌友との協同作業であったが、校正、そして発送は水嶺が行った。水嶺は「辛夷」の編集作業中に私語をすると「この場で個人的な話をしてはならない」。と怒り出すほどで、印刷所から「辛夷」が刷り上がって届けられると、仕事帰りの陽子とともに封筒に詰め、必ずその日のうちに郵便局に持ち込んだ。北海道の短歌結社の中で「辛夷」は、「原始林」、「新墾」に次ぐ規模にまで成長していくが、主催の水嶺を支えた陽子の力も大きかった。 1972年、同居していた陽子の母が亡くなった。1977年、水嶺は脳血栓となり左半身麻痺が残った。また水嶺はこの頃から緑内障を患い、視力が徐々に低下していく。1980年、陽子は退職し、老いた水嶺を介護する生活に入った。水嶺が病に倒れた後、陽子は「辛夷」の編集発行、会員へのサポート等を担うようになり、1982年、陽子は歩行が不自由な上に緑内障が進行してほとんど失明状態の水嶺を自家用車に乗せ、北海道中の辛夷の支社を巡った。 陽子は短歌を詠み続けていたが、歌集は出していなかった。しかし周囲は水嶺が生きている間に歌集を出すことを勧めた。中でも旧友の山名康郎が強く歌集出版を勧め、ようやく歌集を出す決意を固めた。しかし歌集を出すためにこれまで「潮音」や「新墾」などで発表してきた短歌をまとめていた原稿を、視力をほぼ失っていた水嶺はごみだと思い焼却処分にしてしまった。歌集出版の話がかなり進んだ段階であったため、改めて一から選び直す余裕はなく、結局、初期の1954年頃に詠んだ歌の約半分と、1978年以降に詠んだ歌の約半分とで1982年に歌集、「遠花火」を出版した。また1982年からは北海道新聞日曜版コラム「四季のうた」の連載を始め、1990年まで8年間続けた。 「遠花火」は1983年、第七回現代短歌女流賞を受賞した。審査員の中でも葛原妙子が「遠花火」を強力に推薦した。賞の正賞は日本画家の下村良之介が作成した陶製の壺であり、受賞作「遠花火」から選ばれた5つの短歌が刻み込まれていた。授賞式の後、帯広に戻った陽子は授賞や祝賀会の様子を夫、水嶺に話した。水嶺は陽子の受賞を大変に喜び、正賞の壺を自らの骨壺にするよう頼み込んだ。約半年後、水嶺は亡くなり、希望通り第七回現代短歌女流賞正賞の壺に遺骨は納められ、納骨された。 遂げしとて減るかなしみの量(かさ)ならず 遂げてをはりの恋にあらねば
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