離婚問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 11:04 UTC 版)
「フィリップ2世 (フランス王)」の記事における「離婚問題」の解説
1190年にイザベルが亡くなると、1193年にデンマーク王ヴァルデマー1世の娘インゲボルグと結婚したが、フィリップ2世は彼女が気に入らず、間もなく離婚を宣言し、1196年にバイエルン貴族のアンデクス伯兼メラーノ公ベルトルト4世の娘アニェスと結婚した。しかし、インゲボルグは離婚を認めず、フィリップ2世の結婚を重婚としてローマ教皇に訴えた。ローマ教皇ケレスティヌス3世はこの訴えを認め、フィリップ2世とアニェスとの結婚を無効とし、インゲボルグと死別しない内のフィリップ2世の再婚を禁止した。 フィリップ2世はこれに抵抗し、アニェスを妻とし続けたため、1198年に新教皇インノケンティウス3世はフィリップ2世を破門し、フランスを聖務停止とした。それにより国内でミサも、洗礼も、結婚も、葬儀も行われなくなっため、埋葬されない遺体が墓地に並べられ、不衛生になり、伝染病が流行した。 1201年になるとフィリップ2世は、イングランド王ジョンとの抗争においてローマ教皇の支持を必要としたため、教皇の要求に屈し、少なくともフィリップ2世は教皇を欺く目的で表面上アニェスと別れた。 しかし、アニェスは王に飽きられて捨てられたと思い込み、悲しみから病に罹る。失意の中、アニェスは間もなく男子の双子を出産中に難産で亡くなるが、フィリップ2世はその死因がインゲボルグにあるとし、インゲボルグをエタンプの城に幽閉した。 その後もフィリップ2世はインゲボルグとの離婚を望み、彼女を遠ざけていたが、デンマーク王やローマ教皇の要求により1213年に呼び戻し、王妃として処遇した。 フィリップ2世は教会の干渉に非常に不満で、サン=ドニの年代記によると「(自分が)イスラム教徒だったら良かった。ローマ教皇のいないサラディンがうらやましい」と述べたとされる。
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