離婚問題とカトリック教会からの破門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 10:52 UTC 版)
「ヘンリー8世 (イングランド王)」の記事における「離婚問題とカトリック教会からの破門」の解説
ヘンリーは王妃キャサリンの侍女メアリー・ブーリンと関係を持っていた。メアリー・ブーリンの2人の子はヘンリーの子である可能性があるが、ヘンリー・フィッツロイのように認知はされなかった。始まってまだ日の浅いテューダー朝には正統性に対する疑義があり、王位継承権を主張するかもしれないライバルの貴族が多数存在したため、ヘンリーは強力な男の世継ぎを欲した。また、当時のイングランドでは庶子の権利が大幅に制限され、王位につくことは難しかった。世継ぎとなる嫡出の王子が生まれないために、ヘンリーは王妃キャサリンに愛想をつかし、その侍女でメアリー・ブーリンの姉妹のアン・ブーリンを求めるようになった。だがアンはメアリーと違って愛人となることを拒否し、正式な結婚を求めた。 ヘンリーには3つの選択肢があった。1つ目は認知していた庶子ヘンリー・フィッツロイを嫡出子とすることであったが、教皇の承認を必要とし、相続の正統性への疑義を招く可能性があった。2つ目はメアリー王女を結婚させて男子を得ることであったが、メアリーは小柄で成長が遅れ、ヘンリーが生きている間に子をもうけることは難しいように見えた。3つ目の選択肢はキャサリンと離婚し、新たな妻と結婚することであった。第3の選択肢が最も魅力的に見え、ヘンリーは離婚(正確には婚姻の無効)を画策するようになった。ヘンリーの兄アーサーと短い期間ながら結婚していたキャサリンと結婚することは教会法の教義に反していたため、ヘンリーの結婚に際しては教皇が特別な赦免を与えていた。これを覆して婚姻の無効を訴えたヘンリーは、教皇クレメンス7世と対立し、イングランド国教会を分離成立させてイングランドにおける宗教改革を始めることになった。 スペイン王兼神聖ローマ皇帝カール5世の叔母であるキャサリンとの離婚は容易ではなく、交渉に失敗したウルジーは1529年に罷免された。ウルジーのロンドンの邸宅とカントリー・ハウスはヘンリー8世によって没収され、それぞれホワイトホール宮殿、ハンプトン・コート宮殿となった。同年に宗教改革議会を召集、側近であるトマス・クロムウェルの補佐を受け、1533年には上告禁止法を発布し、イングランドは「帝国」であると宣言した。1534年には国王至上法(首長令)を発布し、自らをイングランド国教会の長とするとともに、カトリック教会から離脱した (English Reformation) 。1535年、ウルジーの後に大法官となっていたトマス・モアは改革に反対したために処刑された。そして1538年、ヘンリーは教皇パウルス3世により破門された。 キャサリンは宮廷から追放され、その部屋はアン・ブーリンに与えられた。
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