離婚以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 05:57 UTC 版)
離婚した後、ヴァイニオの生活が少しずつ変わるようになった。創作では1970年代末と1980年代には更に多作になり、作詞のほかには作曲もよくするようになった。彼はヴェイッコ・サムリ(Veikko Samuli)とヤーッコ・サロ(フィンランド語版)と共作することが多く、サロはヴァイニオが書いた歌をアレンジするようになった。 1976年、ヴァイニオのカンシ・キーンニ・ヤ・クーレミーン(フィンランド語版)(1976年、「唇を閉じてさようなら」)というアルバムに収録されているJawohl, jawohlという歌は歌詞でのラップランドに行くドイツ人旅行者への評論により批判を受けた。このアルバムには感情的なMä uskon huomispäivään(「私は明日を信じる」)やPlayboy 60 v(「プレイボーイ60年」)、スオミ=ルオツィ(Suomi–Ruotsi、「フィンランド=スウェーデン」)やTaas lapsuuden maisemiin(「育った場所に戻って」)なども収録されている。 ヴァイニオは1970年代初期にいくつかの作曲を発表したが、精力的に作曲するようになったのは1970年代末のことだった。彼の初期の作曲にはマトカラカスタヤ(Matkarakastaja、「旅する恋人」)やヴィーサリ・ヴァラハター(フィンランド語版)がある。また、1970年代末の歌のうち最も人気な歌はカユン・アホン・ライター(フィンランド語版)(1979年、「私は空き地を歩く」)というアルバムに収録された同名の歌だった。ヴァイニオはすでに禁酒したものの、たまにはアルコールについての歌を歌うこともあった。ヴァイニオはより感情的な歌を書くようになり、この傾向は次のアルバムであるアルバトロッシ・ヤ・ソルサ(フィンランド語版)(1981年、「アルバトロッスと鴨」)で明らかになった。このアルバムにはヴァイニオの最もよく知られている歌の1つであるアルバトロッシ(Albatrossi)が収録されており、この歌の主題は「失われた若さ」である。ほかにもタピオ・ラウタヴァーラから着想した感情的なApteekin ovikello(「薬局のドアベル」)、そしてパナマン・コンスリ(Panaman konsuli、「パナマ領事」)、Kun mä rupesin ryyppäämään(「私が飲み始めたとき」)などが収録されている。 1976年、ヴァイニオは下品な歌を数曲書く仕事を引き受けた。これらの歌は後にカセットテープでリリースされている。ヴァイニオは一部の歌を書き、歌ったが、ほかのミュージシャンとともに仮名を使用した。ヴァイニオの仮名は「ユンヌ・カイホミエリ」(Junnu Kaihomieli)だった。これらの歌のメロディは多くが著作権の切れた歌に基づいていた。例えば、Kumi-Roope(「ラバー・ローペ」)は民謡のRosvo-Roope(「泥棒ローペ」)を猥褻にしたものであった。1979年には再度同じような仕事に参加した。これらの歌は1992年と1997年にPahojen poikien lauluja 1–2(「不良少年の歌1-2」)とPorno-ooppera / Pahojen poikien lauluja 3(「ポルノ・オペラ/不良少年の歌3」としてそれぞれCDで発売され、いずれも売れてゴールドディスクになった。 1982年、ヴァイニオはキケ・エロマー(英語版)とともにKunto nousee sullakin(「あなたも健康になる」)というシングルの歌を合唱した(作詞はヴァイニオ)。このシングルのB面はエロマーが独唱するポッカナ・ヤ・パイカッラーン(Pokkana ja paikallaan、「真面目と静止」)である。続いて1983年にはセッライスタ・エラマ・オン(フィンランド語版)(1983年、「それが人生」)というコンピレーションアルバムが発売され、ヴァイニオ自身が録音した、最も有名な歌が収録されている。1985年のエラマー・ヤ・エロティーッカー(フィンランド語版)(1985年、「生命とエロティカ」)はヴァイニオが完成したスタジオアルバムのうち最後のものとなり、アレクス・ヤ・ヤーン(Aleks ja Jaan、「アレクスとヤーン」)、Heiskasen kanssa kun heiluttiin(「ヘイスカネンとつるむとき」)、Yksinäinen saarnipuu(「孤独なトネリコ」などが収録されている。 ヴァイニオは離婚した後、ピルッコ・ヘイッカラ(Pirkko Heikkala)と付き合い、2人は1981年12月27日にクーサモで結婚、1983年に娘スヴィ(Suvi)をもうけた。2人は1980年代末にスイスに転居した。1988年、カトリ・ヘレナ、エイノ・グロン、パヴェ・マイヤネン(英語版)などがヴァイニオの50歳の誕生日を祝ってコンサートを行った。
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