離婚へ
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「アリエノール・ダキテーヌ」の記事における「離婚へ」の解説
十字軍遠征の間にアリエノールとルイ7世の亀裂は決定的となり、1150年にアリエノールは次女アリックスを産んだが、十字軍失敗で非難に晒され、夫からの信頼を失い国政から遠ざけられ孤立した。一方、十字軍の苦難を経て為政者として成長したルイ7世はシュジェールを重用、アリエノールを遠ざけて離別を決意するが彼女の不貞を表沙汰にしたくないこと、及び2人の王女への影響を考えて決心がつかなかった。同年にアンジュー伯ジョフロワ4世と係争が生じ、この問題で和解に尽力しルイ7世夫妻の仲介にも働いたシュジェールの存在もあって躊躇していたが、翌1151年1月13日にシュジェールが死去するとルイ7世は離婚に傾き、手に負えないアリエノールに我慢出来なくなった。 1151年8月、アンジュー伯ジョフロワ4世が長子のノルマンディー公アンリ(英名:ヘンリー、後のイングランド王ヘンリー2世)を伴い、臣従の誓いを捧げるためと、ルイ7世のポワティエ代官ジロー・ベルレと争い捕虜にしたことでベルナルドゥスに破門されたため、釈明も兼ねてフランス宮廷を表敬訪問する。会談はベルナルドゥスのベルレ解放と引き換えにした破門解除の提案をジョフロワ4世が拒否したため決裂、アリエノールはこの時まだアンリに関心を示さなかった。同年9月7日にジョフロワ4世が逝去、アンリがアンジュー伯も兼任する。 翌1152年、アンリは臣従誓約のためにフランス宮廷を再訪。アリエノールは11歳年下のアンリに強い関心を抱き、無政府時代のイングランドのスティーブン王の不当性と討伐を訴えるアンリを支持し、「ルイから自由になったら、財宝を提供する」と語りかけた。これを受けてルイ7世は離別を決意し、3月21日に近親婚であるとして婚姻の無効が成立した(事実上の離婚)。マリーとアリックスは嫡出子と認められ親権はルイ7世に移り、アリエノールが臣下として忠誠を保持し続ける限りルイ7世は彼女の再婚に異議を唱えないことなどが条件に決められた。
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離婚へ
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「ルイ7世 (フランス王)」の記事における「離婚へ」の解説
十字軍遠征の間にアリエノールとルイ7世の亀裂は決定的となり、1150年にアリエノールは次女アリックスを産んだが、十字軍失敗で非難に晒され、夫からの信頼を失い国政から遠ざけられ孤立した。一方、十字軍の苦難を経て為政者として成長したルイ7世はシュジェールを重用、アリエノールを遠ざけて離別を決意するが彼女の不貞を表沙汰にしたくないこと、及び2人の王女への影響を考えて決心がつかなかった。同年にアンジュー伯ジョフロワ4世と係争が生じ、この問題で和解に尽力しルイ7世夫妻の仲介にも働いたシュジェールの存在もあって躊躇していたが、翌1151年1月13日にシュジェールが死去するとルイ7世は離婚に傾き、手に負えないアリエノールに我慢出来なくなった。 1151年8月、アンジュー伯ジョフロワ4世が長子のノルマンディー公アンリ(英名:ヘンリー、後のイングランド王ヘンリー2世)を伴い、臣従の誓いを捧げるためと、ルイ7世のポワティエ代官ジロー・ベルレと争い捕虜にしたことでベルナルドゥスに破門されたため、釈明も兼ねてフランス宮廷を表敬訪問する。会談はベルナルドゥスのベルレ解放と引き換えにした破門解除の提案をジョフロワ4世が拒否したため決裂、アリエノールはこの時まだアンリに関心を示さなかった。同年9月7日にジョフロワ4世が逝去、アンリがアンジュー伯も兼任する。 翌1152年、アンリは臣従誓約のためにフランス宮廷を再訪。アリエノールは11歳年下のアンリに強い関心を抱き、無政府時代のイングランドのスティーブン王の不当性と討伐を訴えるアンリを支持し、「ルイから自由になったら、財宝を提供する」と語りかけた。これを受けてルイ7世は離別を決意し、3月21日に近親婚であるとして婚姻の無効が成立した(事実上の離婚)。マリーとアリックスは嫡出子と認められ親権はルイ7世に移り、アリエノールが臣下として忠誠を保持し続ける限りルイ7世は彼女の再婚に異議を唱えないことなどが条件に決められた。
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