離婚問題の解決失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 18:09 UTC 版)
「トマス・ウルジー」の記事における「離婚問題の解決失敗」の解説
王と王妃キャサリン・オブ・アラゴンの離婚問題に対するクレメンス7世の拒否返答により、王の激怒を受け、その絶大な信頼にかげりが出てきたのを見て取ったウルジーは、1525年、惜しげもなく巨大なハンプトン・コート宮殿を王に献上。王は既にアン・ブーリンと同棲を始めており、1527年の教皇への最終的な陳情も失敗した。教皇は同年のローマ劫掠でキャサリンの甥であるカール5世から圧力をかけられ、離婚に反対していたからである。1528年にはダラム司教とセント・オールバンズ修道院を取り上げられ、徐々に王から収入を削られ、サフォーク公とノーフォーク公トマス・ハワード、ノーフォーク公の義弟でアンの父であるロッチフォード子爵トマス・ブーリンらがウルジーの追い落としを画策する中、ウルジーの秘書スティーブン・ガーディナーとの交渉で教皇が提案したイングランドでの離婚裁判主宰に応じたが、離婚問題で皇帝を刺激したくない教皇の意を受けて時間稼ぎをする教皇特使ロレンツォ・カンペッジョ(英語版)枢機卿の意向を変えられず、離婚を断固拒否するキャサリンと早く離婚を実現したい王の間に挟まれ苦境に立たされた。1529年6月にカンペッジョを迎え、自らも判事として参加した離婚審問もキャサリンの強硬な反対とカンペッジョの休廷宣言で不首尾のまま終わった。 王の離婚が遅々として進まないのに業を煮やしていたのはアンも同じで、彼女はウルジーが悪意で妨害していると思いこみ、彼を「私腹を肥やしている」と裁判所に告発した。10月に教皇特使として裁判を主宰したことを王を教皇の風下に置いたとして断罪され、教皇尊信罪で王座裁判所(英語版)に告発されたウルジーは11月3日に大法官を罷免され(後任はモア)、追い打ちをかけるように全ての官位剥奪、全財産の没収の命令が下った。中には彼個人の所有でないヨーク大司教ロンドン公邸も含まれており、その過酷さに批判の声が一部に上がったほどだった(後にこの公邸はホワイトホール宮殿となる)。 ヘンリー8世の重臣に対する断罪がほとんど死罪であった中にあって、ウルジーは死罪を逃れ、大赦でヨーク大司教の地位だけは認められ、引退を許された。1530年1月に病気にかかったが、回復してからは初めロンドン郊外のリッチモンド、次いで4月にヨーク管区南端のサウスウェルへ移住した。8月にヨーク南部のケイウッドに入ったが、引退するどころか政治活動を再開、大司教区会議開催を布告したり教皇庁に使者を派遣したりした。これが王の猜疑心を呼び起こし、教皇庁私通の容疑で逮捕された。それからシェフィールド南のスクルービー城、ノッティンガムを経てロンドンへ護送される途中、レスター修道院(英語版)で病死した。 権勢欲・金銭欲が強く、貴族から成り上がり者と蔑まれ、議会やジェントリからも不評を浴びた。後にウルジーの伝記を書いたジョージ・キャヴェンディッシュ(英語版)によれば、王の意を迎えたことによる急速な出世と、膨大な仕事を自分に任せるようそそのかした寵臣としての言動が描写されていた。当時彼が執務したヨーク大司教ロンドン公邸には常時500人の使用人がいたといわれ、ロンドン西部ハンプトンに建てた彼個人の館は今もハンプトン・コート宮殿として残る。財力と権力で名をとどろかす彼のもとには、多くの貴族・高官がご機嫌伺いに殺到したという一方で、慈善家としての一面も見られ、貧しい平民対象に無料の法律相談、あらゆる相談陳情に応じたといわれ、これら平民を相手とするロンドンの法律屋たちは商売にならなかったという逸話がある。
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