1978年以降
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「フィンランドの国章」の記事における「1978年以降」の解説
1978年5月26日 (381/78) の法令で、紋章デザインの専門家オロフ・エリクソン (Olof Eriksson) の手になる新たな国章が制定され、現在はこれが使用されている。 国章に描かれているライオンは1マルッカ硬貨やフィンランドのユーロ硬貨に使用されている。ほかにも、軍隊、警察など、様々な組織のシンボルとして使用されている。その際、その組織の特徴を表す為にさまざまな変更が加えられている。また一方で、フィンランドの地方自治体の紋章は盾型であるが、ライオンは描かれていない(ヤコブスタードを除く)。 フィンランド海軍第7ミサイル隊: 下半身が魚になり、三叉の矛を持っている。 フィンランド陸軍砲兵旅団: 大砲を持っている。 フィンランド陸軍NBC兵器技術学校: 盾を持つ様は、核・生物・化学兵器からの保護を意味している。 フィンランド陸軍: 緑地のフィンランド国章の後ろにクロスした剣が描かれている。 フィンランド国防軍インターナショナルセンター: 杖を持っている。 フィンランド国防大学: フィンランド士官の階級記章である薔薇が描かれた盾を持っている。 フィンランド警察: 剣の持ち手がライオンになっている。 フィンランド陸軍技術教育センター: 金床の上にライオンが描かれている。
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1978年以降
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3月の復帰戦で67kgを背負ってリバースポートに6馬身差で勝利。しかしこの年は美浦トレーニングセンター開場により中山競馬場から馬がいなくなり、中山の馬房に残ったバローネターフは気が抜けたように体重が増加したため、陣営は急ピッチで調整を行い中山大障害に向かった。大障害はわずか5頭立てで行われ、ファンドリナイロと再び対峙した。しかし軽快に逃げるファンドリナイロと対照的にバローネターフは追走に手間取り、直線で2番手のトキワロッキーを交わしたもののファンドリナイロから4馬身遅れて2着に入線した。 その後半年の休養後、10月28日の障害ステークスを大差で制して中山大障害に出走。またもファンドリナイロが2番人気となったが、ファンドリナイロは前走の京都大障害で5着に敗れており、大障害でも当初先頭に立ったものの大竹柵を越えてメジロコウズに先頭を譲り、大土塁から先は完全に脱落した。バローネターフは逆に大土塁を越えて先頭に立ち、最後は2番手にいたホワイトカイウンに1.9秒の大差で大障害3勝目を挙げた。 1979年は3月3日に出走する予定だった障害ステークスは右後脚の挫石のため出走取消となり、休み明けで臨んだ中山大障害だったが、レースは大逃げを打つファンドリナイロとメジロコウズをから離れた中段に位置し、最後の向こう正面でファンドリナイロ、次いでメジロコウズが一杯になると先頭を奪い、2着のホワイトカイウンに2.5秒差、4:38.5のレコードで4勝目を挙げた。 秋の復帰戦について、障害のオープンではどの競走でも70kg以上背負うことになるため陣営は、天皇賞・秋を前哨戦に選んだ。天皇賞を障害の試走に使うことに対して批判も起きたが、矢野はバローネターフが平地でも長距離なら出世したと考えており、1頭でも2頭でも抜ければ平地の脚があることを証明できるとして出走に踏み切った。バローネターフは13頭立ての最低人気だったが、後方追走から直線でメジロイーグルとバンブトンコートの2頭を抜いて11着に入線した。 そしてバローネターフの陣営はフジノオーが4連覇の際に使用していた重い鞍をフジノオーの調教師であった橋本輝雄から貸与してもらい、グランドマーチスが敗れた66kgを背負って中山大障害に出走した。秋に中京障害ステークス、阪神障害ステークスを制した関西のテキサスワイポンが8kg重いバローネターフとほぼ互角の評価を受けたが、クリノヤマと競り合い、気負いながら逃げていたテキサスワイポンにバローネターフは最後の坂路を越えて馬体を併せ、そして直線では4馬身の差をつけて史上初の中山大障害5勝を達成した。 1980年は大障害6勝目を目指す予定だったが、前年の大障害で左後肢の飛節を痛めて骨膜炎を発症したため引退。4月6日、春の大障害当日の昼休みに引退式が行われた。最後となった79年暮れの中山大障害勝利時のゼッケン6をつけ、根本騎手騎乗のもと詰めかけたファンから惜しみない声援が送られた。その後社台スタリオンステーションで種牡馬入りし、後年グランドマーチスと同じく岩手県の遠野市乗用馬生産組合に引き取られ、乗用馬やサラブレッド相手に繁殖生活を送った。
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1978年以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/10/11 22:04 UTC 版)
かつてカストロカメラのあったカストロ通り575番地は、2011年にヒューマンライツキャンペーン(英語版)の店舗となっているが、伝記映画『ミルク』撮影にあたって当時の内装が再現されていた。カメラ店時代を記憶している地元住民の証言をもとに古い赤色のソファや理髪店の椅子なども忠実に再現されていた。現在のショップオーナーやカメラクルーは店内でミルクの幽霊を見たというこぼれ話が残っている。 カストロカメラ跡地前の歩道には同店の跡地を示す金属製のプラークが据えられ、毎年ミルクの亡くなった日に合わせて行われる記念マーチが一時停止をするポイントになっている。 ミルクの愛用した理髪店チェアやアンティークカメラのコレクションなど、カメラ店の遺物などはGLBTヒストリカル・ソサエティ(英語版)と同団体が開設したミュージアムが保存している。同団体は2003年に "Saint Harvey: The Life and Afterlife of a Modern Gay Martyr." と銘打ち、カメラコレクションを公開した。また『ミルク』のカメラ店のセット作成に際しては、同団体も協力している
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