川端康成の推薦
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生きているうちに歌集を出版したいとのふみ子の願いに向けて、4月以降準備は着々と進められていた。表紙があまりにも不出来で作り直しをお願いする一幕もあったが、初校のゲラも刷り上がっていた。そのような中、中井英夫はふみ子が逡巡していた写真の送付を再三せっついた上で「そういう登場はこの歌壇では十年に一度の事件でしょう。ためらわずそれを百年に一度の事件にしましょう」と、ふみ子をけしかけた。 中井のもとには角川が刊行開始したライバル誌「短歌」からの情報が寄せられていた。歌集の序文依頼のために川端康成に送られた「花の原型」という仮題をつけた歌集案のノートに関する情報であった。ノートを読んだ川端はその内容を高く評価し、3月末に角川書店に持ち込んだ上、掲載を強く推薦したのである。「短歌」編集部では160首を一気に6月号に掲載する準備を進めていたところが、ふみ子が「短歌研究」4月号で五十首応募特選となったため、掲載歌数を予定よりも減らし、宮柊二が選歌を担当してやはり6月号で発表する話が進められていたのである。中井はふみ子に対して百年に一度の事件にしたいとけしかけたのは、この話を聞きつけてのことであると白状した上で、ぜひとも「短歌」への掲載を実現したいとした。また中井はふみ子に対して、歌集出版をぜひこちらでやらせて欲しいとも伝えた。 ふみ子は川端康成の角川への推薦と「短歌」への掲載、中井からの歌集出版の申し出に大変驚いた。歌集出版の話についてはふみ子は大変に喜んだ。実際問題として実家の野江呉服店の経営状態があまり芳しくなく、父母に経済的な負担を掛けることはふみ子にとって苦痛であった。ふみ子は既に進んでいた札幌での歌集出版を中止し、中井に委ねることにした。 一方、「短歌」への自作掲載の話についてはふみ子は戸惑いを見せた。ふみ子は「短歌研究」6月号に中井から依頼された30首が掲載され、ライバル誌である「短歌」6月号にも自作集が掲載されるということが、あまりに汚く、さもしいのではないかと考えたのである。ふみ子の逡巡に対し、中井はどうしても「短歌」は出さなければいけない、ふみ子が送ってきた30首は感心しないので、もっと推敲を進めて場合によっては7月号に廻せばよい。とにかくふみ子の歌を歌壇にきちんと評価してもらうには、何が何でも「短歌」にもふみ子の歌が載らなばならない。僕(中井)のためにも「短歌」に出させましょうとまで手紙に書き、続く手紙でも汚いなんて考える必要は全く無い、1954年の歌壇が中城ブームに見舞われたっていいじゃありませんかと書いた。 「短歌研究」5月号にはふみ子の入選作家の抱負「不幸の確信」が掲載された。ふみ子は短歌の現状について「『歌いたいから歌うのだ』というのびやかさや『歌わずには居られぬ』という必然性に欠乏している」と指摘した上で、自らの歌について「不治といわれる癌の恐怖に対決した時、始めて不幸の確信から生の深層に手が届いたと思う……ひたすら自分のためにのみ書く作品が普遍的な価値を持つまでに高められる試みの端緒を僅かに掴んだばかりの今である」と書いた。かつて大森卓がふみ子に語ったという「君が不幸だと思っている不幸を大切にしたまえ、君の才能はその不幸につながっていると僕はみている、不幸な人間は何か偉いことをやりとげるものです」という言葉は、このような形でふみ子の最期の活躍を支えることになった。
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