川端康成研究家として
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大学院時代の1961年(昭和36年)3月、評論「『伊豆の踊子』を彩る女性(上・下)」を発表し、いち早く川端康成の初期の恋人「伊藤初代」の存在に着目していたが、この論はほとんど注目されなかった。川嶋はこの仮説を、「細川皓」の名で『群像』の新人文学賞に応募。入選しなかったが、選考委員だった伊藤整の推薦で1967年(昭和42年)の『群像』9月号に「原体験の意味するもの―『伊豆の踊子』を手がかりに―」と題して発表されて、「伊藤初代」の存在が文学界に広まった。この評論の注目により、同年に講談社から『川端康成の世界』を出版。さらに様々な川端作品に伊藤初代の影があることを論考。初代についての新たな調査を行なった。また、初代の「幻影」がカジノ・フォーリーの踊子・梅園龍子や、養女の黒田政子へ引き継がれていったという仮説も提示するなど、川嶋は鋭い指摘をしていた。 その後、1974年(昭和49年)、江藤淳らの同人雑誌『季刊藝術』に連載した「事実は復讐する」で、安岡章太郎の『幕が下りてから』『月は東に』が、事実に基づきながら安岡に都合のいいようにこれを捻じ曲げていると指摘し、怒った安岡があるパーティーで川嶋と間違えて川村二郎に殴りかかったとされる。文壇の権力者である安岡を批判したことで川嶋は文壇から「パージ」され、江藤淳の推薦で東工大教授になったという伝説がある。川嶋の世話で東工大に就職した井口時男の『危機と闘争』には、川嶋が死んだ時、文芸雑誌にはまったく追悼文は載らず、文壇は川嶋を抹殺したのだと書いてある。 しかし川嶋は、1976年、川端康成の弟子だった耕治人が私小説「うずまき」を発表し、「先生」に土地を奪い取られたと書いた際、『文學界』1976年3月号に「誰でも知っていること」と題する文を書いて、川端が耕の土地を騙しとったとしたが、武田勝彦が同誌の同年5月号に「誰も知らなかったこと‐川端康成氏の冤罪を濯ぐ」を書いて反論し、問題の土地は耕が賃貸して川端の義理の弟とトラブルを起こし裁判所で決着がついているとした。川嶋が文芸誌から姿を消したのはこれ以後のことである。
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