川端康成研究家としてとは? わかりやすく解説

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川端康成研究家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/26 11:41 UTC 版)

川嶋至」の記事における「川端康成研究家として」の解説

大学院時代1961年昭和36年3月評論「『伊豆の踊子』を彩る女性上・下)」を発表しいち早く川端康成初期恋人伊藤初代」の存在着目していたが、この論はほとんど注目されなかった。川嶋はこの仮説を、「細川皓」の名で『群像』の新人文学賞応募入選しなかったが、選考委員だった伊藤整推薦1967年昭和42年)の『群像9月号に「原体験の意味するもの―『伊豆の踊子』を手がかりに―」と題して発表されて、「伊藤初代」の存在文学界広まった。この評論注目により、同年講談社から『川端康成世界』を出版。さらに様々な川端作品伊藤初代影があることを論考初代についての新たな調査行なったまた、初代の「幻影」がカジノ・フォーリー踊子梅園龍子や、養女黒田政子引き継がれていったという仮説提示するなど、川嶋は鋭い指摘をしていた。 その後1974年昭和49年)、江藤淳らの同人雑誌季刊藝術』に連載した事実復讐する」で、安岡章太郎の『幕が下りてから』『月は東に』が、事実に基づきながら安岡都合いいようにこれを捻じ曲げていると指摘し怒った安岡があるパーティー川嶋間違えて川村二郎殴りかかったとされる文壇権力者である安岡批判したことで川嶋文壇から「パージ」され、江藤淳推薦東工大教授になったという伝説がある。川嶋世話東工大就職した井口時男の『危機闘争』には、川嶋死んだ時、文芸雑誌はまった追悼文は載らず、文壇川嶋抹殺したのだと書いてある。 しかし川嶋は、1976年川端康成弟子だった耕治人私小説うずまき」を発表し「先生」土地奪い取られと書いた際、『文學界1976年3月号に「誰でも知っていること」と題する文を書いて川端が耕の土地騙しとったとしたが、武田勝彦が同誌の同年5月号に「誰も知らなかったこと‐川端康成氏の冤罪濯ぐ」を書いて反論し問題土地は耕が賃貸し川端義理の弟トラブル起こし裁判所決着ついているとした。川嶋文芸誌から姿を消したのはこれ以後のことである。

※この「川端康成研究家として」の解説は、「川嶋至」の解説の一部です。
「川端康成研究家として」を含む「川嶋至」の記事については、「川嶋至」の概要を参照ください。

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