伊藤初代とは? わかりやすく解説

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伊藤初代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/15 05:30 UTC 版)

伊藤 初代(いとう はつよ、1906年明治39年〉9月16日 - 1951年昭和26年〉2月27日)は、川端康成の元婚約者。15歳の時に22歳の川端と婚約し、その1か月後に突然婚約破棄を告げた女性である[1][2]。その事件による失意が川端の生涯の転機となり、様々な作品に深い影響を与えたことで知られる[3][4][5][6][7][8]。川端の永遠に満たされることのなかった青春の幼い愛は、清潔な少女へのや、聖処女の面影への憧憬を残し、孤児の生い立ちの克服という命題と融合しながら独自の基盤をなして、川端文学の形成に寄与した[3][5][6][7][8][9]


注釈

  1. ^ なお、川端の小説内では、初代は小学校3年生の秋までしか学校に行かなかったと書かれている[23][24]
  2. ^ 平出実は、平出修(児玉家の八男)の妻・平出ライ(平出家の四女)の実兄・善吉の長男[11][27]。平出修は平出家の婿養子のため、義理の甥と同姓となっている。善吉が1906年(明治39年)に亡くなり、当時17歳の実を修が引き取った[11][27]
  3. ^ 平出実の背後には、牛込コミューン派(徳田球一井之口政雄ら)のシンパだった兜町株屋カネハンの総領息子・小林竹次郎がいたとされる[7]。小林は日本共産党系の慶應義塾大学の仲間の資金提供者であったという[7]
  4. ^ 初代はカフェ・エランに数え年11歳(大正5年)から15歳(大正9年)秋まで居たという説明が川端の小説『彼女の盛装』にあり[28]、10歳の頃から山田ますに引き取られていたという説もある[11]
  5. ^ 川端と初代に出会った正確な日付は定かではないが、川端がその年の秋の末、右脚の痛みを取るために伊豆湯ヶ島温泉へ行き、東京に戻った冬に初代から、「もう足はおよろしいですか」と聞かれたことが草稿「湯ヶ島での思ひ出」で記されている[32][33]。そのため、まだ初代と出合っていなかった6月(処女作『ちよ』発表)以降から遅くとも冬までの間だと推定されている[11]
  6. ^ なお、古谷綱武は、この白木屋の「千代」(山本千代)と、カフェ・エランの「千代」(伊藤初代)を混同し、2人を同一人物だと誤解してしまっている[38]
  7. ^ 川端は伊藤初代に出会う前の6月に、その白木屋の16番女給・山本千代の名前を題材にした小説「ちよ」を一高文芸部の機関誌『校友会雑誌』に発表していた[34][35][39]
  8. ^ 新小説』掲載時の「篝火」で描かれていたこの記述は、24年後の全集第1巻(新潮社、1948年)に初収録時に削除された[47]。削除された後半の、伊豆の踊子の裸身を思い出す部分は以下の内容である。
    その時にも、私は今と同じも一つの少女の裸身を思ひ出してゐた。天城山の南の麓、南伊豆の湯ケ野温泉であつた。夜の豪雨に風物が洗はれた朝は、からりと晴れた小春日和であつた。宿の内湯につかつてゐると、小川の向ふ岸の共同湯の流し場から、私を認めたのか、裸の女が走り出して、脱衣場の突つ鼻に川岸へ飛下りさうな格好で立ち、両手を一ぱいに伸して何か叫んでゐる。旅の踊子である。その踊子がゐるために、私は旅芸人の一行と道連れになつてゐたのであつた。伊豆大島で育つたと云ふ豊かな髪と衣裳とに騙されて、裸を見るまで、娘盛りだと思ひつめてゐたのであつた。ところが、子供なんだ。黄色い雨水が先を争ふ勢で流れて行く山川と快く伸びた背丈一ぱいに立つた裸の小娘とは、一時に私をすがすがしくしたのを覚えてゐる。 — 川端康成「篝火」(初出)
  9. ^ 三明永無は島根県邇摩郡温泉津町西田624番地(現・大田市温泉津町)の名刹・瑞泉寺に生まれ、杵築中学校(現・島根県立大社高等学校)を首席で卒業し、帝国大学ではインド哲学を学んだ。その後三明は布哇本派本願寺教団本部の開教師として1930年(昭和5年)にハワイホノルルに駐在した[11][31][54]太平洋戦争開戦により一旦帰国後、戦後再びハワイに赴任し、その後郷里の島根県にて1979年(昭和54年)1月11日に80歳(数え年)で死去した[54]。2014年(平成26年)現在の瑞泉寺住職は三明慶輝となっている[16]
  10. ^ 三明は川端について、「淡々たる性格で、人を虚構をもってあざむくというようなことはない。どんな時にも平静を失わない」と語っている[31]
  11. ^ 川端康成の出世に期待していた川端岩次郎は、それ以前の1921年(大正10年)3月に書留で康成に、「小生は貴公の成功をのみ楽み居り。今後も小生にて出来る事なれバ遠慮なく申越され度候。小生は性来筆不精につき御無音に打過候へ共何も意志に変りなく候につき此慮不悪御承知下され度御願申上候」と伝え、それを読んだ康成は、〈親切の程が察せられてをもよほした〉と日記に綴っている[61]
  12. ^ 日記には、〈俺は元来手淫などは方法も知らず行つた事もない 今迄の家庭の周囲にそんな風がなかつたからだ 決して早熟の俺だから気附かざる事なきにしもあらずだけれども此頃書いまきを着てねてるのが到る所に斑点斑点してゐる 夜毎に冷い刺戟を感じるのは全く冷汗の到り〉と記されている[65]
  13. ^ 川端は禁欲的で、中学時代の日記に自慰もしていないことが記されているが[65][注釈 12]、一高の時にも、未だかつて「手淫」をしたことがないと三明に打ち明けたことがある[31]。そんな川端だったため、初代との婚約が破談した後、この機会に接吻もしなかったことを、〈接吻の機会は飛石のやうに続いてはゐない。女が男の言ふままにならうと思ふ時は花火のやうに短い火だ〉と悔いるように描いている[24][66]
  14. ^ 瀬古写真館は、創業1875年(明治8年)の三層の塔を持つ洋風の写真館である[62]。当時の写真館主・瀬古安太郎が川端らを撮影した[62]
  15. ^ しかし川端は婚約が破談した後、初代の〈膝に広がつた〉の写真を見る度、その時の自分のエゴイズムを反省した。自分の花嫁となる初代の〈半襟まで美しく見せたい気持が胸一ぱいだつたとしても、なぜ醜く膨らんで荒れた手を隠せと言つたのだらう〉と、それに黙って従った初代の写真に頭を下げて詫びた[24]
  16. ^ 石濱金作によると、川端と三明が第6次『新思潮』同人の誰かの家の二階に皆を集めて、そこで婚約のことを発表したとしているが[30]鈴木彦次郎によると、川端と鈴木と石濱が本郷の喫茶店でお茶を飲んでいる時に、突然川端が初代との婚約を話したとしている[29]
  17. ^ 初代の原文では、「あなた」が「貴女」、「云ふ」が「言」になっていたりと、細かい間違いや脱字などは川端が小説内に引用する際に修正している[14]
  18. ^ この川端の手紙には、以下のような直截的な感情が続いて綴られている。
    二十七日に出した手紙にはいろいろ詳しく書いたが、あんなことは君の都合でどうでもよろしい。僕は君の云ふ通りにして上げる。早く何とか思ふ通り返事して下さい。唯、一人で旅することは僕が心配だし心細いから止めてください。必ず迎ひに行く。そして何とか汽車に乗れたらそれでよろしい。東京に来てからのことで心配なことがあるなら、それも君の思ふ通りにしてあげる、厭なことなど決してさせない。父親の方は安心してゐなさい。台湾の方も僕が責任持つて好くしてあげる。国へも帰してあげる。実に話したいことが山ほどある。国へ帰るにしても、東京にしばらくゐる間不自由ないやうにと、色々考へてゐたが急なことだし、思ひ通りにならない。そんなことは辛棒して下さいね。
    誰が何と云つたつて僕を信じていらつしやい。君の思ふ事何でも承知してあげる。早く手紙下さい。毎日どんなに暮してゐるかと、手紙が来ないと泣き出すほど気にかかる。僕は十日前後に必ず行く。知れてもいいから、汽車にさへ乗れたら大丈夫だ。君が悪く人から云はれる所は僕が皆代りに引き受けて上げる。お父様の方は安心していらつしやい。病気ぢやないか。病気なら病気とはがきだけでも下さい。君の思ふ通り書いて下さい。 — 川端康成「伊藤初代宛ての未投函の手紙」[14]
  19. ^ 鈴木彦次郎の述懐では、川端が岩谷堂に行った日付が10月16日となっているが、これは鈴木の記憶違いと判明している[60]。この日を10月16日としてしまっている研究者(川西政明など)もいるが[7]、川端はこの時に10月23日付の初代の手紙を持参しており[24][28]、11月1日に帰京している[75]
  20. ^ 川端は中学時代から、自身の容姿にコンプレックスがあり[63]、〈俺の最大の希望は総ての女を殺す容貌を与へてほしい事だ。俺の本性はどうしても耽溺の内に生きたいのだ。俺ほど人の美貌をまんじりとせず見つめる者はあるまい。そしてのろひうらやみ抱擁せんと常に思ふのである〉[87]、〈俺は俺の容貌に一日でもかまはないから満足して誇を持つた日を送つてみたいと思つてゐる〉[88]、〈あゝ俺の美貌にあくがれ我容貌に心を痛める事も久しいものである。こうした苦悶が私の文学生活の痛深な一面をなすかもしれん〉[89]、〈私のからだはやはり青白く力がない。私の顔は少しの若さも宿さず、黄色く曇つた目が鋭く血走ると言つてもいいくらゐに光る〉と綴っている[33][90]
  21. ^ 川端の祖父・三八郎が夢枕に立ち、「迷ふ勿れ、『南方の火』を書け」と言ったと、川端の日記に書かれている[98]
  22. ^ 川端が伊藤初代との結婚を許可してもらうために父親を訪ねる旅と、それから10年後に初代と再会したことを題材としている『父の十年』は、「過去の“古傷”を明るく清算する内容」であるが[110]、森晴雄は、『父の十年』と同じく1932年(昭和7年)3月発表の『雨傘』『見知らぬ姉』を鑑みながら、初代の訪問の1度目が2月前半と推測論証している[110]
  23. ^ 各回の初出題名は、第一信「父母への手紙」、第二信「後姿」、第三信「父母への手紙(続)」、第四信「父母への手紙(続)」、第五信「あるかなきかに」[128]

出典

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  79. ^ a b c d 「大黒像と駕籠」(文藝春秋 1926年9月号)。小説21 1980, pp. 141–162に所収
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  81. ^ 伊藤初代「川端康成宛ての書簡」(大正10年11月7日付)。恋文 2014, pp. 118–119に掲載
  82. ^ a b c d e f g h 「あとがき」(『川端康成全集第3巻 浅草紅団』新潮社、1948年10月)。独影自命 1970, pp. 54–75に所収
  83. ^ a b 伊藤初代「川端康成宛ての書簡」(大正10年11月11日付)。『彼女の盛装』内
  84. ^ a b c 伊藤初代「川端康成宛ての書簡」(大正10年11月24日付)。恋文 2014, p. 120に掲載
  85. ^ a b 「恋を失ふ」(のち「伊豆の帰り」と改題)(婦人公論 1926年6月号)。小説2 1980, pp. 367–384、非常 2015, pp. 59–78に所収
  86. ^ a b c d e f g 「暴力団の一夜」(のち「霰」と改題)(太陽 1927年5月号)。小説2 1980, pp. 471–492、初恋小説 2016, pp. 197–221に所収
  87. ^ 「當用日記」(大正5年1月23日付)。補巻1・日記 1984, p. 288に所収
  88. ^ 「當用日記」(大正5年2月15日付)。補巻1・日記 1984, p. 297に所収
  89. ^ 「當用日記」(大正5年3月1日付)。補巻1・日記 1984, p. 303に所収
  90. ^ 「當用日記」(大正5年12月6日付)。補巻1・日記 1984に所収
  91. ^ a b 「覚書」(大正11年6月10日付)。補巻1・日記 1984, pp. 542–544に所収
  92. ^ a b 今日出海「川端さんとの五十年」(新潮臨時増刊 川端康成読本 1972年6月号)。進藤 1976, pp. 115–116に抜粋掲載
  93. ^ a b c d e f g h i j k 「あとがき」(『川端康成全集第4巻 抒情歌』新潮社、1948年12月)。独影自命 1970, pp. 75–100に所収
  94. ^ a b 「日記」(大正12年1月14日付)。補巻1・日記 1984, pp. 578–579に所収
  95. ^ a b c d e 「日記」(大正12年1月25日付)。補巻1・日記 1984, pp. 582–586に所収
  96. ^ a b 「日記」(大正12年5月20日付)。補巻1・日記 1984, p. 586に所収
  97. ^ a b c d e f g h 中林忠吉「談話」(河北新報 1973年6月25日号)。基底 1979, pp. 264–266
  98. ^ a b 「日記」(大正12年1月2日)。補巻1・日記 1984, pp. 572–573に所収
  99. ^ a b 水原園博(川端康成記念会理事)「川端康成 悲しき初恋秘話」(日本経済新聞、2016年4月27日号)
  100. ^ a b c d 「日記」(大正15年3月31日付)。独影自命 1970, pp. 139–141に所収
  101. ^ a b c d 「あとがき」(『川端康成全集第6巻 雪国』新潮社、1949年6月)。独影自命 1970, pp. 129–147に所収
  102. ^ a b 「入京日記」(文藝時代 1926年5月号)。随筆1 1982, pp. 96–102に所収。
  103. ^ a b c d e f g h i 佐多稲子「レストラン・洛陽」(文藝春秋 1929年9月号)。『白と紫 佐多稲子自選短篇集』(学藝書林、1994年12月)に所収。森本・上 2014, pp. 303–306
  104. ^ a b 田村嘉勝「佐多稲子と『レストラン洛陽』― 「夏江」と伊藤ハツヨと川端康成と―」(芸術至上主義文芸 第38号、2012年11月)。森本・上 2014, p. 804
  105. ^ a b 「第三章 恋の墓標と〈美神〉の蘇生――自己確立へ 第二節 愛の呪縛『抒情歌』『父母への手紙』」(森本・上 2014, pp. 272–309)
  106. ^ 佐多稲子「川端さんとの縁」(『近代作家追悼文集成 高橋和巳・志賀直哉・川端康成』ゆまに書房、1999年4月)。『白と紫 佐多稲子自選短篇集』(学藝書林、1994年12月)。小谷野 2013, p. 193
  107. ^ a b 「文芸時評 窪川氏の『レストラン・洛陽』」(文藝春秋 1929年10月号)。評論2 1982, pp. 353–368に所収
  108. ^ a b 「第三章 千客万来の日々――満州行」(秀子 1983, pp. 75–156)
  109. ^ a b c d 母の初恋」(婦人公論 1940年1月号)。愛する 2006, pp. 7–46、小説7 1981, pp. 7–40に所収
  110. ^ a b c d 森晴雄「川端康成『父の十年』―『旅心の美しさ』と『明るい喜び』―」(雲 2012年12月-2013年3月号)。森本・上 2014, p. 298
  111. ^ a b 川嶋至「『母の初恋』論のための序章」(苫小牧駒澤短期大学研究紀要 第2号、1966年11月)。「『母の初恋』をめぐる一つの推論」(北海道大学国文学会 国語国文研究 第36号、1967年2月)。森本・上 2014, pp. 399–340
  112. ^ a b 「第五章 ひとつの断層―みち子像の変貌と『禽獣』の周辺―」(川嶋 1969, pp. 158–199)
  113. ^ a b c 「第三章 恋の墓標と〈美神〉の蘇生――自己確立へ 第五節 〈美神〉の蘇生『母の初恋』」(森本・上 2014, pp. 398–414)
  114. ^ a b c d e 「新日本名所案内62 水郷」(週刊朝日 1965年7月2日号)。随筆3 1982, pp. 270–277、初恋小説 2016, pp. 275–288に所収。永遠の少女 2014, p. 124に抜粋掲載
  115. ^ 白田紀子「羽鳥徹哉宛ての書簡」(昭和50年8月30日付)。基底 1979, p. 272
  116. ^ 羽鳥徹哉「川端康成年譜」(文芸読本 1984, p. 255)
  117. ^ 「川端文学に触れて…『篝火の像』岐阜市に建立へ」(岐阜新聞 2009年9月29日号)
  118. ^ a b c 田中保隆「故園」(作品研究 1969, pp. 189–204)
  119. ^ 「第一編 評伝・川端康成――愛」(板垣 1969, pp. 27–49)
  120. ^ 「第二章 新感覚派の誕生――文壇への道 第四節 〈孤児〉からの快癒『伊豆の踊子』」(森本・上 2014, pp. 125–160)
  121. ^ 「第二編 作品と解説――伊豆の踊子」(板垣 1969, pp. 130–150)
  122. ^ 「第三章 恋の墓標と〈美神〉の蘇生――自己確立へ 第七節 新しい〈美神〉『故園』と『天授の子』」(森本・上 2014, pp. 450–472)
  123. ^ 「第六章 『住吉』連作――〈魔界〉の門 第七節 痛恨と断念『隅田川』」(森本・上 2014, pp. 770–802)
  124. ^ 「第十章 荒涼たる世界へ――〈魔界〉の終焉 第七節 養女麻紗子の結婚と伊藤初代の死」(森本・下 2014, pp. 482–502)
  125. ^ a b 事典 1998
  126. ^ 「あとがき」(『川端康成全集第11巻 掌の小説』新潮社、1950年8月)。独影自命 1970, pp. 196–217に所収
  127. ^ 川端香男里「解説」(初恋小説 2016, pp. 431–444)
  128. ^ 浅草紅団2巻 1970, p. 332





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