新感覚派とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > デジタル大辞泉 > 新感覚派の意味・解説 

しんかんかく‐は【新感覚派】


新感覚派

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/08 04:48 UTC 版)

新感覚派(しんかんかくは)は、大正後期から昭和初期にかけての日本文学の一つの流派[1][2]1924年(大正13年)10月に創刊された同人誌『文藝時代』を母胎として登場した新進作家のグループ、文学思潮、文学形式を指し、おもに当時の横光利一川端康成中河与一片岡鉄兵今東光岸田國士佐佐木茂索十一谷義三郎池谷信三郎稲垣足穂藤沢桓夫吉行エイスケ久野豊彦らを指すことが多い[3]

『文藝時代』創刊時、評論家・ジャーナリスト千葉亀雄が同人の言語感覚の新しさにいち早く注目し、『文藝時代』創刊号の印象を『世紀』誌上で評論した上で[4][5]、彼らを「新感覚派の誕生」と命名して以来、文学史用語として広く定着した[6][7]モダニズム文学として注目された新感覚派は、同年6月に創刊されたプロレタリア文学派の『文芸戦線』とともに、大正後期から昭和初期にかけての大きな文学の二大潮流となった[8][9][2][10]

特徴・傾向

第一次世界大戦後のヨーロッパに興ったダダイスム芸術革命が目指されたアバンギャルド運動、ドイツ表現主義を意識した新感覚派の表現や手法の特徴としては、美術音楽の感覚の働き方に近く、作風に新しい「ポエム――詩美」が漂う[11]。それは、伝統的な私小説リアリズムを超える言語表現の独立性を強調し、近代という状況・感覚・意識を基調として主観的に把握、知的に再構成した新現実を感覚的に置換・創造する作風、などを傾向としている[4][12][11][13]

『文藝時代』創刊号に掲載された横光利一の『頭ならびに腹』の冒頭文、「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。」の描写に見られるように、20世紀西欧文学の影響による擬人法比喩の手法を導入し、従来の日本語の文体に大きな影響を与えた[4][6][注釈 1]

川端康成は、新感覚的表現について以下のように説明している[11]

例へば、砂糖は甘い。従来の文芸では、この甘いと云ふことを、舌から一度に持つて行つて頭で「甘い。」と書いた。ところが、今は舌で「甘い。」と書く。またこれまでは、眼と薔薇とを二つのものとして「私の眼は赤い薔薇を見た。」と書いたとすれば、新進作家は眼と薔薇とを一つにして、「私の眼が赤い薔薇だ。」と書く。理論的に説明しないと分らないかもしれないが、まあこんな風な表現の気持が、物の感じ方となり、生活のし方となるのである。 — 川端康成「新しい感覚」(「新進作家の新傾向解説」)[11]

活動概略

小説の他、1926年(大正15年)には、企画に横光利一が参加し、川端康成がシナリオを担当することで、映画監督衣笠貞之助が協力し、日本で最初のアヴァンギャルド映画狂った一頁』を制作した。説明的映像に阿らない純粋映画を狙った画期的な無字幕無声映画として話題を集めた[17][18]

また、1927年(昭和2年)から1929年(昭和4年)初期にかけて、プロレタリア文学派と新感覚派との間に「形式主義論争」が生じるなど、活発な思潮の舞台ともなった。理論的には、横光利一の「新感覚派とコンミニズム文学」(昭和3年)や[19]、同時期の彼の評論、随筆に体系化の跡がみられる[12][20][21]

1925年(大正14年)に離脱した今東光はその後、旧労農党に入党、片岡鉄兵前衛芸術家同盟に参加し左傾化、主要同人の横光利一らが時代の寵児となり、1927年(昭和2年)5月号をもって『文藝時代』は終刊した[22][23][24][25]。その後1929年(昭和4年)に左翼に対抗する芸術派として中村武羅夫尾崎士郎、川端康成らで結成した「十三人倶楽部」が母体となって、翌1930年(昭和5年)には井伏鱒二吉行エイスケらも所属した「新興芸術派倶楽部」が設立され、「新感覚派」の黄金時代は終焉を迎える[23][26][27]

「新感覚派の天才」、「新感覚派の雄将」と呼ばれ、派の中心的存在であった横光利一だったが、横光本来の美質(告白小説的な作品で見られる素直な描写)と、人工的文体の技巧性が最もうまく融合した新感覚派的作品として高評価されたものには、1926年(大正15年)8月に雑誌『女性』に発表された『春は馬車に乗つて』や、1927年(昭和2年)2月に『改造』に発表された『花園の思想』がある[28][21]

その後の横光は1930年(昭和5年)に『機械』を発表。文学史的には「意識の流れ」を取り入れた新心理主義に移行するが[27]、1931年(昭和6年)、新感覚派の集大成であり、新感覚派的手法への弔鐘とも言われる長編『上海』を完結し[29][21]、1932年(昭和7年)には特に文体の技巧性は見えない『寝園』を発表し、1934年(昭和9年)には知人の実体験に基づいた『紋章』を発表する[21]。一方、1931年(昭和6年)には満州事変が起き、文学の流れも国策の時代へ転換。のちに横光も文芸銃後運動(1940年)に加わり、時代思潮としての新感覚派も完全に終焉した[23]

脚注

注釈

  1. ^ ちなみに、新感覚派の表現がポール・モランの『夜ひらく』を手本として出来上がったとすることや模倣説を唱えた文壇に対して、川端康成は、新感覚派的な表現は『夜ひらく』の邦訳以前からあったとし、西欧の前衛潮流や他の外国文芸も多分に新感覚派的要素を持っていると異議を唱え[14][15]、「その冤を雪ぐまでもなく、恐らく模倣した者は一人もなかつたのだらう」としている[16]

出典

  1. ^ 「“都市化時代”の始りと展開――大正12年~昭和5、6年」(昭和アルバムI 1986, pp. 17–53)
  2. ^ a b 「第一章 不断の歯痛」(高見 1987, pp. 9–22)。進藤 1976, pp. 236–238、荒井 2017, pp. 48–49に抜粋掲載
  3. ^ 「新感覚派」(文藝 1952年6月号)。評論4 1982, pp. 626–630に所収
  4. ^ a b c 千葉亀雄「新感覚派の誕生」(世紀 1924年11月号)。アルバム横光 1994, p. 38、森本・上 2014, pp. 117–118、実録 1992, pp. 73–74、斉藤 1987, pp. 1–2に抜粋掲載
  5. ^ 「第二章 新感覚派の誕生――文壇への道 第三節 『文藝時代』発刊と新感覚派の誕生」(森本・上 2014, pp. 106–124)
  6. ^ a b 「新感覚時代――国語との血戦」(アルバム横光 1994, pp. 36–47)
  7. ^ 「新感覚派の弁」(新潮 1925年3月号)。評論4 1982, pp. 476–482に所収
  8. ^ 「第一編 評伝・川端康成――出発」(板垣 2016, pp. 50–72)
  9. ^ 羽鳥徹哉編「年譜」(作家の自伝 1994, pp. 311–317)
  10. ^ 高橋英夫「『死』の存在論」(水晶幻想 1992, pp. 285–297)
  11. ^ a b c d 「新進作家の新傾向解説」(文藝時代 1925年1月号)。評論2 1982, pp. 172–183に所収。板垣 2016, pp. 65–66、森本・上 2014, pp. 119–122に抜粋掲載
  12. ^ a b 「感覚活動――感覚活動と感覚的作物に対する非難への逆説」〈改題後:新感覚論〉(文藝時代 1925年2月号・第2巻第2号)。横光・評論13 1982, pp. 75–81に所収
  13. ^ 石川則夫「新進作家の新傾向解説」(事典 1998, pp. 204–205)
  14. ^ 「諸家に答へる詭弁―新感覚主義に就て少々―」(萬朝報 1925年4月24日、28日、30日、5月1日、2日号)。評論4 1982, pp. 489–498に所収
  15. ^ 「第四章 『文藝春秋』と『文藝時代』」(小谷野 2013, pp. 135–159)
  16. ^ 「文壇的文学論」(萬朝報 1925年11月7日、10日-12日号)。評論2 1982, pp. 215–222に所収
  17. ^ 栗坪良樹「作家案内―川端康成」(紅団・祭 1996, pp. 290–303)
  18. ^ 「新感覚――『文芸時代』の出発」(アルバム川端 1984, pp. 18–31)
  19. ^ 「新感覚派とコンミニズム文学」(新潮 1928年2月号)。横光・評論13 1982, pp. 93–97に所収
  20. ^ 「笑はれた子と新感覚――内面と外面について」〈改題後:内面と外面について〉(文藝時代 1927年2月号・第4巻第2号)。横光・評論13 1982, pp. 84–85に所収。荒井 2017, pp. 133–134、キーン現代4 2012, pp. 54に抜粋掲載
  21. ^ a b c d 「一九 モダニズムと外国の影響――横光利一(1898~1947年)」(キーン現代4 2012, pp. 39–83)
  22. ^ 福岡益雄(金星堂社長)「創刊の前後」(『復刻版 文藝時代』別冊 日本近代文学館、1967年5月)。進藤 1976, pp. 236、森本・上 2014, pp. 208–209に抜粋掲載
  23. ^ a b c 「第二部第一章 『文藝時代』廃刊」(進藤 1976, pp. 225–239)
  24. ^ 「第二章 新感覚派の誕生――文壇への道 第五節」 『掌の小説』と『感情装飾』(森本・上 2014, pp. 161–213)
  25. ^ 「第二章 文壇へのデビュー――左翼からも共感」(実録 1992, pp. 90–93)
  26. ^ 「第二部第四章 浅草」(進藤 1976, pp. 269–281)
  27. ^ a b 「第一編 評伝・川端康成――非情」(板垣 2016, pp. 73–96)
  28. ^ 「第二編 作品と解説――春は馬車に乗つて」(荒井 2017, pp. 133–142)
  29. ^ 「新感覚派」(『日本現代文学全集』月報97 講談社、1968年10月)。評論4 1982, pp. 631–634

参考文献

関連項目

外部リンク


新感覚派

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 02:00 UTC 版)

横光利一」の記事における「新感覚派」の解説

1924年大正13年5月第一創作集『御身』を金星堂より、同時に文藝春秋叢書として『日輪』を刊行9月豊多摩郡中野町上町2802番地移ったが、キミの肺が不調となったこの頃キミ少女雑誌童話のようなものを書いていたらしく、横光の姉しずこに自分書いたものが載っている雑誌見せたりしていた。 10月川端康成とともに今東光中河与一石浜金作酒井真人佐々木味津三鈴木彦次郎南幸夫文藝春秋同人重な新進作家糾合して『文藝時代』を創刊する発行元金星堂で、資金援助したプロレタリア文学全盛の中、この雑誌は新感覚派の拠点となる。また新感覚派は「震後文学」ともいわれた。稲垣足穂も『文藝時代』に作品投稿した横光は『文藝時代』に「頭ならびに腹」を発表し冒頭の「真昼である。特別急行列車満員のまま全速力で馳けていた。沿線小駅は石のやうに黙殺された」という表現を、評論家千葉亀雄が「新感覚派の誕生」において、「新感覚派」と命名した。ただし、横光は「文藝時代同人中、自分は新感覚派なりと云って出て来たものは、まだ一人もない」と述べている。 11月雑誌改造』に「愛巻」を発表。『文芸春秋11月号に、直木三十三(のちの直木三十五)の執筆によるゴシップ風の「文壇諸家価値調査表」が掲載されると、横光はこれを読んで激怒した。まず川端康成下宿行った川端不在だったため今東光訪ねた今はその時横光について、「彼(横光)はその十一月号を鷲掴みにして僕の家へ駆けこんで来た。本当に怒っていた。(中略)彼は僕の原稿用紙自分ペンをとって反駁文を書いた。」と書いている。横光激怒したのは、『文芸春秋』が「俺たち文藝時代』の者の競争心マーク煽動させておいて結団心を邪魔させ、その隙に乗じて大家達をどつしりと坐らせようとした」と考えたためである。横光反駁文を読売新聞学芸部送った後、再び川端康成訪ねた事情聞いた川端驚き懸命に横光なだめて深夜横光一緒に読売新聞社行った原稿はすでに印刷所まわっていたが、学芸部長の好意取り戻すことができた。川端は「調査表」に不快を感じたものの、横光ほど潔癖な義憤示さず意外なほど冷静で、師であり、日頃物心両面恩人である菊池対し絶交宣するのはよくない考えていた。この川端慎重な配慮なければ作家として横光その後立場は危ういものとなっていた可能性があった。その横光身代わりのように、横光同調して反駁文を書いて新潮』へ送った今東光は、結果として文藝時代』を一人脱退し菊池喧嘩する破目陥った横光川端説得され自分反駁文を撤回したことを今には知らせなかった。この事件の後罪悪感からか、横光は今を避けようになった12月推定)、佐藤一英仲人役として、日本高等女学校卒業したキミ茶碗酒貧し結婚式行ったが、当時18歳キミ保護者同意なしに結婚許されなかったため、婚姻届提出されなかった。婚姻届提出されたのはキミ死後のことである。 1925年大正14年1月27日中野の家で母が死去同一月、北川冬彦詩集三半規管喪失」を賞賛し、激励した2月、「感覚活動-感覚活動感覚的作物対す非難への逆説」を、イマヌエル・カントの『純粋理性批判上』(天野貞祐訳、岩波書店1921年2月)を典拠として書いた6月に妻・キミ結核発病し10月療養のため菊池寛世話神奈川県葉山町森戸へ移る。 1926年大正15年1月に「ナポレオン田虫」を『文藝時代』に発表。この月、雑誌文藝春秋』は発行部数11部にのぼった

※この「新感覚派」の解説は、「横光利一」の解説の一部です。
「新感覚派」を含む「横光利一」の記事については、「横光利一」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「新感覚派」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ

「新感覚派」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「新感覚派」の関連用語

1
驍将 デジタル大辞泉
100% |||||

2
綱の上の少女 デジタル大辞泉
100% |||||

3
十一谷義三郎 デジタル大辞泉
90% |||||

4
千葉亀雄 デジタル大辞泉
90% |||||



7
中河与一 デジタル大辞泉
70% |||||

8
文芸時代 デジタル大辞泉
70% |||||

9
新感覚派の誕生 デジタル大辞泉
70% |||||

10
横光利一 デジタル大辞泉
70% |||||

新感覚派のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



新感覚派のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの新感覚派 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの横光利一 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2025 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2025 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2025 GRAS Group, Inc.RSS