新感覚派映画聯盟の結成
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「狂つた一頁」の記事における「新感覚派映画聯盟の結成」の解説
1925年(大正14年)、衣笠貞之助はマキノ・プロダクション傘下の聯合映画芸術家協会で、横光利一原作の卑弥呼を描いた『日輪』を演出し、これを機に衣笠は横光と親交をもつようになった。翌1926年(大正15年)に満30歳を迎えた衣笠は、誰からも掣肘を受けず、自由に思いのままの映画を作ろうと決意し、マキノ・プロダクションを離れて独立した。まずは映画製作に必要なカメラとレンズを手に入れるため、知人のドイツ人に撮影機パルボK(英語版)を上海まで買いに行かせた。このカメラは本作の撮影で用いられた。衣笠が構想したのはサーカスを舞台とした老人の物語で、これを製作するため自宅の地下室に現像所を作り、近所の茶畑をロケ地として借り受け、そこに1か月間借り切りにした巡業サーカス団の天幕を張って撮影するという計画を立てた。 この新しい映画製作の相談をするため、衣笠は葉山に滞在していた横光を訪ねた。これにすぐさま応じた横光は、4月2日に『文藝時代』の同人で新感覚派の川端康成、片岡鉄兵、岸田国士、池谷信三郎に声をかけ、この映画の計画ために共同で案を練ることになった。ここに新感覚派映画聯盟が結成されたが、その名称は4月11日に報知新聞がこの映画製作について報道したときに、新感覚派にちなんで勝手に命名したものであり、これがそのまま正式なプロダクション名になった。
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