新感覚派映画聯盟
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1924年、直木三十五のすすめもあり、横光の小説に共感していた映画監督の衣笠貞之助によって『日輪』は映画化された。撮影は奈良の三笠山で、セットは飛火野に設営され、横光も見学にきた。しかしこの映画は内務省検閲によって不敬罪で告訴され、配給会社は上演を中止した。 1926年3月、衣笠は葉山で妻を看病していた横光の自宅に赴き、映画製作の相談をした。了承した横光は、4月2日に川端を呼び出し、「営利を度外視してよき芸術映画を製作せんとする企て」を衣笠から横光邸で聞かされた。横光はこの他、片岡鉄兵、岸田国士、池谷信三郎にも声をかけ、新感覚派映画聯盟が成立した。同年、横光が題をつけた『狂つた一頁』が製作された。横光は字幕が入ることで損なわれる映画の純粋性を考慮して、無字幕を提案した。川端は脚本を書いたが、横光は妻の看病で葉山にいたため京都で撮影されていた映画に直接は関われなかった。 1926年6月24日、妻・キミが三浦郡逗子町で20歳で死去。妻の葬儀は麹町の有島邸内文藝春秋社で執り行った。7月に婚姻届出。このころの二人のことは「春は馬車に乗って」「妻」「慄える薔薇」「花園の思想」「蛾はどこにでもいる」などに書かれている。姉が「あんたも苦労のしつづけね」と言って慰めると、横光は「おれも随分つくしたが本当のことをいえばしまいにはつくづく厭になって疲れてしまった」と愚痴をこぼした。キミの死後、横光は一時キミの実家である小島家で暮らしていたが、キミの2歳年下の妹の肉体に惹かれるものを感じ、恐怖して小島家を出た。横光はこのことを「蛾はどこにでもいる」で、「彼はだんだん義妹の身体が恐くなつた。或る日、彼は黙つて妻の家から逃げ出した」と表現している。8月に発表された「春は馬車に乗って」は文藝春秋社の一室を借りて書かれた。題は、ノルウェーの作家アレキサンダー・キーランドの「希望は四月緑の衣を着て」の影響を受けた。典拠とした翻訳は前田晃訳で博文館から1914年に刊行された『キイランド集』であった。この頃、菊池寛の周囲に出入りしていた文学女性の一人であった小里文子と恋愛関係になり同棲を開始するが、文子は結核に罹っており、横光は再び結核患者の看病に明け暮れることとなった。文子との生活は「計算した女」に描かれたが、やがて2ヶ月ほど経ったある朝、「あなたに頂いた私の健康はお返しします。お受け取り下さい」という置手紙を残して文子は横光から去ってしまった。 1926年10月、小林秀雄が「人生斫断家アルチュル・ランボオ」(現「ランボオⅠ」)を発表し、横光はこの論文を読み込み、「幸福を感じた」と感想を書いている。1926年末には改造社が一冊一円の『現代日本文学全集』を刊行し、円本ブームが起きた。横光も改造社とともに躍進し、『現代日本文学全集』刊行記念講演なども1927年(昭和2年)5月に行い、宣伝にも協力した。12月、横光を崇拝していた女子美術学校生の日向千代子の訪問を受け、すぐさま同棲を開始した。 1927年1月、『春は馬車に乗って』を改造社から刊行し、2月に「花園の思想」を発表。日向千代子が妊娠したため、2月に菊池寛が媒酌人となって再婚し、豊多磨郡杉並町大字阿佐ヶ谷に住んだ。千代との結婚生活において、キミやキミを描いた作品の話題はタブーとなり、このタブーを犯した者は横光家を出禁となるようになった。11月3日に長男・象三が誕生した。7月24日、芥川龍之介が自殺した。1927年7月には「朦朧とした風」を発表し、〈セメント製アパートメント。丘と丘とを充填した義歯〉と表現したり、9月の「七階の運動」では〈エレベーターは吐瀉を続けた〉などとモダン都市を新しい感覚で表現した。モダンガールについても描いた。文藝春秋が事業展開していく一方、『文藝時代』はこの1927年に廃刊した。
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新感覚派映画聯盟
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映画との結びつきについては、同人のうち横光利一、川端康成、片岡鉄兵、岸田国士が、映画監督の衣笠貞之助とともに、1926年(大正15年)4月に「新感覚派映画聯盟」を結成した。 新感覚派映画聯盟では、横光が題名をつけた無字幕の映画『狂つた一頁』のシナリオを川端がまとめて『映画時代』7月・創刊号に発表し、9月に映画公開された。無字幕にしたのは映像の純粋性を保つためで横光の主張であった。この作品は、ドイツ表現主義映画の『カリガリ博士』(1920年日本公開)から触発されたもので、日本的家族観を投入している工夫が見られる。 この映画製作がきっかけで、『文藝時代』1926年(大正15年)10月号(第3巻第10号)は特集映画号となり、稲垣足穂ら7名がシナリオ作品を掲載した。『狂つた一頁』は全関西映画協会から優秀映画となりメダルも授与されたが、興行的には振るわず、新感覚派映画聯盟はこの一作のみで終った。『狂つた一頁』は日本初のアバンギャルド映画として、世界映画百年史の中に位置づけられ、多くの国々の映画界でよく知られている作品である。
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