新感覚派映画聯盟とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 新感覚派映画聯盟の意味・解説 

新感覚派映画聯盟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 02:00 UTC 版)

横光利一」の記事における「新感覚派映画聯盟」の解説

1924年直木三十五のすすめもあり、横光小説共感していた映画監督衣笠貞之助によって『日輪』は映画化された。撮影奈良三笠山で、セット飛火野設営され、横光見学にきた。しかしこの映画内務省検閲によって不敬罪告訴され配給会社上演中止した1926年3月衣笠葉山で妻を看病していた横光自宅に赴き、映画製作相談をした。了承した横光は、4月2日川端呼び出し、「営利度外視してよき芸術映画を製作せんとする企て」を衣笠から横光邸で聞かされた。横光この他片岡鉄兵岸田国士池谷信三郎にも声をかけ、新感覚派映画聯盟が成立した同年横光が題をつけた『狂つた一頁』が製作された。横光字幕が入ることで損なわれる映画の純粋性を考慮して無字幕を提案した川端脚本書いたが、横光は妻の看病葉山にいたため京都撮影されていた映画直接は関われなかった。 1926年6月24日、妻・キミ三浦郡逗子町20歳死去。妻の葬儀麹町有島邸内文藝春秋社執り行った7月婚姻届出。このころ二人のことは「春は馬車に乗って」「妻」「慄える薔薇」「花園思想」「はどこにでもいる」などに書かれている。姉が「あんたも苦労のしつづけね」と言って慰めると、横光は「おれも随分つくしたが本当のことをいえばしまいにはつくづく厭になって疲れてしまった」と愚痴こぼしたキミ死後横光一時キミ実家である小島家暮らしていたが、キミ2歳年下の妹の肉体惹かれるものを感じ恐怖して小島家出た横光はこのことを「はどこにでもいる」で、「彼はだんだん義妹身体恐くなつた。或る日、彼は黙つて妻の家から逃げ出した」と表現している。8月発表された「春は馬車に乗って」は文藝春秋社一室借りて書かれた。題は、ノルウェー作家アレキサンダー・キーランドの「希望四月緑の衣着て」の影響受けた典拠とした翻訳前田晃訳で博文館から1914年刊行された『キイランド集』であったこの頃菊池寛周囲出入りしていた文学女性一人であった小里文子恋愛関係になり同棲開始するが、文子結核罹っており、横光は再び結核患者看病明け暮れることとなった文子との生活は「計算した女」に描かれたが、やがて2ヶ月ほど経ったある朝、「あなたに頂いた私の健康はお返します。受け取り下さい」という置手紙残して文子横光から去ってしまった。 1926年10月小林秀雄が「人生斫断家アルチュル・ランボオ」(現「ランボオⅠ」)を発表し横光はこの論文読み込み、「幸福を感じた」と感想書いている。1926年末には改造社が一冊一円の『現代日本文学全集』を刊行し円本ブーム起きた横光改造社とともに躍進し、『現代日本文学全集刊行記念講演など1927年昭和2年5月行い宣伝にも協力した12月横光崇拝していた女子美術学校生の日向千代子訪問を受け、すぐさま同棲開始した1927年1月、『春は馬車に乗って』を改造社から刊行し2月に「花園思想」を発表日向千代子妊娠したため、2月菊池寛媒酌人となって再婚し、豊多磨郡杉並町大字阿佐ヶ谷住んだ千代との結婚生活において、キミキミ描いた作品話題タブーとなり、このタブー犯した者は横光家を出禁となるようになった11月3日長男・象三が誕生した7月24日芥川龍之介自殺した1927年7月には「朦朧とした風」を発表し、〈セメントアパートメント。丘と丘とを充填した義歯〉と表現したり、9月の「七階の運動」では〈エレベーター吐瀉続けた〉などとモダン都市新し感覚表現したモダンガールについても描いた文藝春秋事業展開していく一方、『文藝時代』はこの1927年廃刊した。

※この「新感覚派映画聯盟」の解説は、「横光利一」の解説の一部です。
「新感覚派映画聯盟」を含む「横光利一」の記事については、「横光利一」の概要を参照ください。


新感覚派映画聯盟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 02:42 UTC 版)

文藝時代」の記事における「新感覚派映画聯盟」の解説

映画との結びつきについては、同人のうち横光利一川端康成片岡鉄兵岸田国士が、映画監督衣笠貞之助とともに1926年大正15年4月に「新感覚派映画聯盟」を結成した。 新感覚派映画聯盟では、横光題名をつけた無字幕の映画狂つた一頁』のシナリオ川端まとめて映画時代7月創刊号発表し9月映画公開された。無字幕にしたのは映像の純粋性を保つためで横光主張であった。この作品は、ドイツ表現主義映画の『カリガリ博士』(1920年日本公開)から触発されたもので、日本的家族観投入している工夫見られる。 この映画製作きっかけで、『文藝時代1926年大正15年10月号(第3巻第10号)は特集映画号となり、稲垣足穂ら7名がシナリオ作品掲載した。『狂つた一頁』は全関西映画協会から優秀映画となりメダル授与されたが、興行的に振るわず、新感覚派映画聯盟はこの一作のみで終った。『狂つた一頁』は日本初アバンギャルド映画として、世界映画百年史の中に位置づけられ、多く国々映画界でよく知られている作品である。

※この「新感覚派映画聯盟」の解説は、「文藝時代」の解説の一部です。
「新感覚派映画聯盟」を含む「文藝時代」の記事については、「文藝時代」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「新感覚派映画聯盟」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「新感覚派映画聯盟」の関連用語

新感覚派映画聯盟のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



新感覚派映画聯盟のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの横光利一 (改訂履歴)、文藝時代 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS