家族愛
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家族愛(かぞくあい)とは、恋愛感情とは異なる家族の愛情[1]。
- ^ 『萌える男』(本田透、筑摩書房、2005年) 143ページ ISBN 4-480-06271-8
- ^ 『萌える男』(本田透、筑摩書房、2005年) 151ページ ISBN 4-480-06271-8
- ^ 『萌える男』(本田透、筑摩書房、2005年) 147ページ ISBN 4-480-06271-8
- ^ 『社会学講義』(橋爪大三郎、佐藤郁哉、吉見俊哉、大澤真幸、若林幹夫、野田潤著、筑摩書房、2016年) 206、211ページ(野田潤による執筆部分) ISBN 978-4-480-06898-9
- ^ 『社会学講義』(橋爪大三郎、佐藤郁哉、吉見俊哉、大澤真幸、若林幹夫、野田潤著、筑摩書房、2016年) 200、201ページ(野田潤による執筆部分) ISBN 978-4-480-06898-9
- ^ 根拠欠く教科書 どう評価?悩む先生 教科になった道徳:朝日新聞デジタル(2018年10月8日)2021年8月8日閲覧
- ^ 【特別の教科 道徳編】小学校学習指導要領(平成29年告示)解説、p.56
- ^ 道徳の必修化はいじめ増加を招く | 上久保誠人のクリティカル・アナリティクス | ダイヤモンド・オンライン(2015年2月18日)2021年8月8日閲覧
- 1 家族愛とは
- 2 家族愛の概要
家族観
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家族観
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先述の通り、黎子は幼少時より放蕩三昧の父を嫌悪していた。女学校在学中より、貧農な小作人たちと富裕な自分たちの環境との比較により、父の嫌悪、家への不満は顕著となった。 ブルジョワ階級の一人息子として気侭に育った父は、日夜酒色に溺れ、足しげく街の花柳界に入り浸り、放蕩三昧の生活をしていた。(中略)しかる父の冷たい行為に対して、何一言、妻としての権利も主張し得ず、淋しそうに沈黙を守っている母の態度……(中略)旧い家族制度と、横暴な権力者を憎んだ。 — 渋谷黎子雑誌 創刊号、杉山 1988a, p. 47より引用。 女学校卒業後に数々の縁談を受けていた時期、当時の結婚話はいずれも財産や家柄を主眼とし、経済関係に根差したものであったことから、自分がその対象となることを悲惨に感じていた。後の日記で黎子は「結婚! 結婚! 結婚とは何か? 馬鹿! 最後の自由までも束縛される女性の牢獄ではないか?」「自分は恋愛など、空虚な、精神的浪費としか思えない。真実の恋愛など、そうざらにあるものではない」と結婚観を語り、結婚する友人たちを奴隷化と呼んで「次々と奴隷になって行く友人達が、むしろ気の毒に思われてならない」とも綴っている。 全く聞いただけでウンザリする。自分はまだ勉強の事ばっかり考えているので、結婚なんて問題外だ。しかも、全然交際もせずに結婚なんか出来るものかしら。私は全く交際もせずに結婚出来るなんてことは不思議で仕方がない。女は実にうるさい。何んとか言うとすぐ結婚である。これでは一も結婚、二も結婚、三も結婚。女はまるで結婚の化け物みたいなものではないか。“女にも、恋愛や結婚以外の仕事がある” — 1929年3月12日付の日記、渋谷 1978, p. 53より引用 渋谷定輔に出逢い、社会運動を志した後は、苦痛を感じる家庭に縛り続けられることで、鬱憤は募る一方だった。酒色にふける父、無言の内にその父に従順する家族たちという、家庭崩壊にも等しい状態の家族に、苦悩の日々を送り続けた。 芸者、半玉、女中など四人ほど来る。(中略)夜の九時までもすばらしい遊びをする。全く呆れてしまう。(中略)私も、幾度となく呼ばれたが、失礼だったけど、席へ出なかった。諸人、例によって例のごとく、デレデレに酔っていた。これでは家庭も何もあったものではない。母までいい気になっているから呆れざるを得ない。あんまり私は憤慨したので、母に「あんな遊びは家庭の堕落ですよ」と言ってやった。母は変な顔をして黙っていた。(中略)うるさくて読書もなにも出来ない。実に憤慨に耐えない日である。 — 1929年3月21日付の日記、渋谷 1978, p. 86より引用 このように家を嫌悪する一方で、肉親への愛情も抱いていた。1928年(昭和3年)7月28日に定輔に宛てた手紙では「一昨日も、雑誌の事で、検事から調べられて来ました」とあり、母に心配を抱かせることの苦痛を吐露していた。上京を希望した後も、肉親への愛情を断ちがたいことに苦悩していた。 私は、すぐ上の姉さん(東京にいる)のように家へ来れないのはいやですね。私はまだ若いせいか、お母さんが大好きなんですもの。 — 定輔宛ての手紙、1928年9月5日付、渋谷 1978, p. 27より引用 また先述の通り出奔した姉の事情もあり、娘を2人も失う悲しみを母に与えたくないという娘心もあった。先述の親友である本間清も、筆名「杉本信子」名義で以下の追悼文を寄せている。 来るべき私等の輝かしき未来を語り合うと、第一の問題として家庭を捨てなければならないということになってくる。これに対してあなたは相当悩んだ。限りなく開いてくれる母を置き去りにして行くことは悲しいと言うのが、あなたの悩みだった。 — 杉本信子「親友黎子さんの追憶」、蒲池1978a 1978, p. 288より引用 1929年前半の日記には、酒色に溺れる父への嫌悪、家に対する嫌悪、思想と実際の生活とが一致しないことでの苦悩、空虚感や焦燥感が強く吐露されている。特に7月26日の日記には、自分が家族に誘われて浪費したことが書かれており、最高潮に達した葛藤、無価値な生活に対する失望が読み取れる。 父は毎日酒ばっかり呑んでいて全く仕方がない。(中略)自分は父の顔を見るのもいやだ。(中略)午後、母にすすめられて節子さん、まつ子さん、私と三人で梁川へわざわざ髪結に出かける。(中略)六十銭も無駄にして全く馬鹿な話である。こんな金があるなら『無産者新聞』の基金に送るべきだった。 — 1929年4月9日付の日記、渋谷 1978, p. 61より引用 今日は朝、母が飯坂温泉に出かけ、(兄たちが)泊りがけでどこかへ出かけている。父はゆうべの酒宴の疲労で朝からこたつに寝転んでいる。(中略)家には誰もいない。こんな家庭なんて、一体あるものかしら。 — 1929年4月18日付の日記、渋谷 1978, p. 86より引用 桑摘みから帰って行く腰の曲がったお婆さんや、病人らしい人達を見送って、心は限りない寂しさに悩む。あんなに年老いても、なお疲労し切って働かねばならず、病気でも医者にかかれず、栄養物もとれずに、ああして働かねばならぬ人達と思うと身震いがする。この不合理な社会制度を、一日も早く変革しなくてはならない。(中略)それにしても、自分はどうしてこうも安閑として、不正な家庭に止まっているのか? 父を見よ、朝から酒を浴び、昼頃また料理屋へ行ったではないか! — 1929年6月1日付の日記、渋谷 1978, p. 86より引用 朝七時の電車で福島行き。(中略)帰りに新フォードの貸切りで来て金をキレイに使ってしまった。なんと寂しい涙の出そうな毎日だ。自分はもう、こうした生活はたくさんだ。自分はなんだか、本当の自分とは遠く離れているような気がしてならない。 — 1929年7月26日付の日記、渋谷 1978, p. 97、二瓶 2014, p. 142より引用 同年9月に出奔して上京後、同年12月、黎子は家出から自己試練の3か月間を経たとして、初めての実家への手紙を送っている。 泣くまいとしても、独りで涙のにじみ出る苦しい心の軋みを、決して、さけることなく、じっとかみしめることによって、その悲しみを克服し、乗り超えてきました。(中略)今後おそらくいかなる事情と情勢に当面しても、何ら動揺することなく、しっかりと大地に足を踏みしめて、自分の信ずる道を進んで行くことが出来るでしょう。 — 黎子から姉宛ての手紙、渋谷 1978, p. 122より引用 1930年1月に結婚後、同月に、実家の妹から結婚祝いに着物が贈られた。これに対して黎子から妹へ送られた以下の手紙は、農民運動への挺身にあたり、肉親への甘えや依頼心を断ち切る意志の現れと見られている。 私に着物を送ってくれることは本当にうれしいことです。(中略)しかし、これからは決して、着物などは送ったりしないようにしなければなりません。ます姉さんに、あなたが叱られますからね。(中略)それから、手紙を出すと叱られるでしょうから、出さなくともよいのです。(中略) 姉さんの氏名は、渋谷黎子というのですから忘れないで下さい。以前の名前は決して使ってはならないのです。 — 黎子から妹宛ての手紙、1930年1月4日付、渋谷 1978, pp. 134–135より引用 とは言え実家から離れて暮せば、ある程度の愛情や懐かしさはあったと見え、1930年5月には両親に『大衆文学全集』を、妹には『世界プロレタリア傑作選集』を贈っている。また同年4月、妹からの手紙で実家の母が病気を患ったと知り、母宛ての見舞いとして80銭の菓子を贈っている。もっとも、これは定輔が当時、オルグで家を空けることが多く、その寂しさが母恋しさに繋がったものとも見られている。そうした寂しさ、実家への恋しさの戒めや、人間として持って当然の感情を敢えて押し殺そうとしている記述も、当時の日記に見える。 馬鹿!! 自分は何を考えている? その不健康な個人的・盲目的愛情問題こそ、プチブル意識の残り滓ではないか。個人的愛情と階級的愛情との弁証的統一をはかれ! 盲目的愛情を科学的に揚棄せよ! あの明確なプロレタリア科学によって武装せる彼に学べ! — 1930年4月14日付の日記、渋谷 1978, p. 150より引用 1931年初夏、黎子は定輔宛ての手紙で「私はもう実家にどのような事が起っても、一切手紙も出さず、『親のためにはただ一度の念仏をも申さず候』とか言った親鸞の言葉をかみしめることにしました」と記し、実家との決別の意志を表明した。また翌1932年の吉見事件直後の頃、黎子が粟野村の実家について綴った日記には、実家を出奔してからの生活を決して後悔していないこと、出奔後の生活が一つの救いになっていたことが現れている。 一昨日家から手紙が来た。(中略)自分にはあれ以来の生活が、いろいろと思われた。そして、今の自分には、一件の家にいて、お互いに顔を合わさないということが、あまりにも不思議に感じられた。(中略)しかし、こんなことは、自分に対して、少しも幸福を与えてはくれなかった。そして、それだけではなしに、自分に幾多の苦悩を教えたのだ。あの家で! あの東北の広い広い大きな静寂な家で! 幾度も、幾度も、自分の歴史を組み立ててはこわし、こわしては築いてみた。 — 1932年4月7日付の日記、渋谷 1978, pp. 268–269より引用 しかしながら先述通り、同1932年夏には定輔の負傷の治療のために黎子の実家へ転居しており、定輔の治癒後も自身の療養のために、実家に滞在した。訣別の意志を明らかにしながらも、傷病には勝てなかったのである。
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家族観
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同性結婚の導入について「どちらかといえば反対」と回答。 選択的夫婦別姓の導入について、「どちらかと言えば反対」と回答。
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