川端との10年ぶりの再会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 09:36 UTC 版)
「伊藤初代」の記事における「川端との10年ぶりの再会」の解説
初代には、徳川喜好、横須賀市の料理屋の息子など、取り巻きの男性は多かったが、その中に徳川喜好の友人で洋行帰りの桜井五郎がいた。桜井は汽車製造会社に務めており、地下鉄車輛研究のために1925年(大正14年)に渡米し、1928年(昭和3年)3月に帰国した。その年か翌年に桜井と初代は結ばれ、長男・和夫が1929年(昭和4年)に生まれたが、この男児はすぐに肺炎で亡くなった。夫婦は1930年(昭和5年)8月28日に正式に婚姻届を出し、翌1931年(昭和6年)11月23日に次男・貴和男が生まれた。初代の妹・マキは同年4月10日に、白田熀治郎に嫁いだ。 1932年(昭和7年)の春先3月初め頃、初代は下谷区上野桜木町36番地(現・台東区上野桜木)の川端家を訪ねた。住所を知らなかったため川端が顧問をしているレビュー劇場・カジノ・フォーリーの楽屋で川端の住所を訊ねてやって来た。10年ぶりの再会であった。夕方6時頃来て11時頃までいた初代は川端と書斎で対面中、ずうずうしい女だとお思いになるでしょうと何度も繰り返して、川端を懐かしがった。なお、その少し前の2月前半頃にも、初代が川端宅に出向いていると思われる記述が川端の作品などに見られる。 夫・桜井五郎が前年から失業し、生活が苦しかった初代は、小説家として有名になっていた川端を頼り、前夫・中林忠蔵との間の長女・珠江(当時8歳)を養女に貰ってほしいと頼んだ。その申し出を断られ、これ以降、初代は川端家を訪れることはなかった。 川端は妻・秀子の手前、初代をタクシーで駅まで見送ることもできず、家の門で別れて、その寂しい後ろ姿を見送りながら、この次また会うまでに10年かかるかなという気がした。16歳の頃の初々しさや美しさが失われた初代との再会で、川端の中にあった初代の〈少女〉の姿はなくなった。川端の「美神」の像は崩壊し、この出来事は、その後の川端の作品のいくつかのモチーフとなった。 川端宅訪問後の4月10日、初代の次男・貴和男が消化不良のために亡くなった。翌々年の1934年(昭和9年)12月2日には女児が生まれたが、美和子と名付けられたこの娘も1年後に亡くなった。桜井五郎は反骨無頼で、仕事が長続きしない向きのある性格で、そのため家族は苦労が多かった。
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