川端の掌編小説
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初期の頃の35編は1926年(大正15年)6月15日に金星堂より刊行の処女作品集『感情装飾』に初収録された。その後の1930年(昭和5年)4月7日に新潮社より刊行の『僕の標本室』には、新作を加えた47編が収録され、1938年(昭和13年)7月19日に改造社より刊行の『川端康成選集第1巻』には77編が収録された。 これらの掌編小説群に関して、川端は1938年(昭和13年)時点の選集では、以下のように語っている。 私の著作のうちで、最もなつかしく、最も愛し、今も尚最も多くの人に贈りたいと思ふのは、実にこれらの掌の小説である。この巻の作品の大半は二十代に書いた。多くの文学者が若い頃に詩を書くが、私は詩の代りに掌の小説を書いたのであつたらう。無理にこしらへた作もあるけれども、またおのづから流れ出たよい作も少くない。今日から見ると、この巻を「僕の標本室」とするには不満はあつても、若い日の詩精神はかなり生きてゐると思ふ。 — 川端康成「あとがき」(『川端康成選集第1巻 掌の小説』) しかし12年後に出された全集ではこの評価を覆し、「それらの標本の多くを私は今好まない」、「私の歩みは間違つてゐたやうに思はれる」と自己嫌悪を述べている。 この点に関して吉村貞司は、作家が過去の自作に対し、世の賞讃に背いて自己嫌悪や過去の幼さを恥じることもあるだろうが、この『掌の小説』の中には川端のあらゆる要素が含まれるとし、「複雑な反射の作り出す目もあやな光のシンファオニイ」に喩えられるような、「作者としてのよろこびも、悲しみも、悩みも、嫌悪も反射する」多彩さがあるとしている。 大正末期には掌編小説が流行し、岡田三郎や武野藤介なども書いていたが永続せず、ひとり川端のみが、「洗練された技法を必要とするこの形式によって、奇術師とよばれるほどの才能の花」を開かせたとされ、島木健作からは、「心が洗はれるやうな清々しさのなかに、美しく懐かしく喜ばしく悲しい人生を眼のあたりに感じる」と高く評価されている。
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