川端の観戦記
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『東京日日新聞』、『大阪毎日新聞』両紙に連載された秀哉名人の引退碁観戦記は、小説家の目で詳細に描かれた観戦記という画期的なものだったが、川端康成自身が、〈私の精励な凝り性の一面〉が出ていると語っているように、川端も若い時から碁に親しみ、文壇の囲碁仲間内でも「打ち手」として知られていた。 作中に明らかなやうに、私は対局の棋士の風貌、表情、動作、言葉は勿論、対局の時間の天候、部屋の模様や床の生花に至るまで、丹念にノオトして、観戦記にも使ひ、この作品でさらに書き加へた。(中略)私の精励な凝り性の一面が、観戦記にもこの「名人」にも出てゐる。さうあり得たのは観戦記当時の碁好きのせゐばかりではなく、名人にたいする私の敬尊のおかげである。 — 川端康成「あとがき」(『呉清源棋談・名人』) 対局の約1年半後の1940年(昭和15年)1月18日に秀哉名人は熱海のうろこ屋旅館で亡くなったが、川端はその前日の1月17日の「紅葉祭」(尾崎紅葉の『金色夜叉』の「今月今夜の月」の日)のために熱海に滞在しており、秀哉名人の死の2日前に会って最後の将棋の相手をしていた。そして名人の死に駆けつけて、死顔の写真も撮ったという縁があった。川端は名人の死をきっかけにして小説『名人』の執筆に至った。
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