「非常」の真相
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1923年(大正12年)10月に石濱がカフェ・エランの店の前にある煙草屋の主婦から情報を聞き出し、初代が岐阜の西方寺にいた時、強姦され自暴自棄になって家出してしまったことを、川端に知らせた。初代を犯したこの人物は、伏字のない川端の日記原文には〈千代は西方寺にて僧に犯されたり〉と綴られていた(川端が実名類を伏せていたものでは、この部分を「みち子は岐阜○○にありし時、○に犯されたり」としている)。 なお、この西方寺での強姦事件が事実であったことが、2014年(平成26年)に、初代の遺族(三男・桜井靖郎)の証言で確認されている。靖郎は姉の珠代から、この母の「非常」の秘密の事実を聞かされていた。初代が戦後すぐ書いた日記によれば、川端とは1922年(大正11年)2月に会い、その時それを告白したと書かれているという。 煙草屋の主婦によると、初代はカフェ・パリでの権藤とは「関係なし」「誰があんな男と」と吐き捨て、権藤の故郷の福岡県には行ったが、権藤の姉に咎められて、30円だけ渡されて1人で帰京したという。権藤は家から勘当され苦学生となるが、初代を気の毒がった煙草屋の主婦が小遣いを求めた。初代は権藤から金時計を貰うが、それを「汚らわしい」と投げたとされる。川端が初代に出した数々の手紙は、煙草屋が預かっていた。川端は、〈手紙を東京へ持来りしは不思議な気す〉と思い、初代が西方寺を家出する時に、川端の手紙を大事に持って来ていたことに、まだ何かを期待をしたい気持ちを抱いた。 初代と川端の間には肉体関係はなく、その幼い恋は川端の〈遠い稲妻相手のやうな一人相撲〉に終わったが、川端の〈心の波〉は強く揺れ、その後何年も尾を曳くようになった。最初の『南方の火』以後も川端は、初代との一件を直接に題材にした小説を書くようになった。川端は初代の愛を失った原因に、自分の性格的なものと肉体的なものの両面から考えつつ、そんな自分でも好いてくれる女の人もいたことに思いを馳せて、結局は自分の中に孤児根性やコンプレックスからくる卑屈さやいじけた精神、友人に頼る他力本願、形式にこだわって機会を逃し、初代をすぐに家出させなかったこと等を反省した。
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