「非公式の」十字軍と結末
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/10 16:53 UTC 版)
「貧者十字軍」の記事における「「非公式の」十字軍と結末」の解説
貧者十字軍の参加者たちは自分たちを一種の騎士修道会のようにとらえて「十字の兄弟団」と自称していた。しかしヘント年代記は、この民衆運動には指導者がまったく存在しなかったことを強調している。彼らはあまりにも貧しくアヴィニョンまで行く旅費が足りず托鉢や寄付に頼ったが、同時に各地で強盗掠奪騒動を起こした。特に標的とされたのがユダヤ人だった。ゲルデルン公国では、ボルン城に逃げ込んだ100人以上のユダヤ人が虐殺された。ルーヴェンやティーネンでもユダヤ人が脅かされ、ブラバントのジュナップ城に逃げ込んだ。貧者十字軍はこの城を包囲したが、ユダヤ人を保護していたブラバント公ジャン2世の軍によって駆逐され、大きな損害を被った。こうした無秩序や無計画ぶりにもかかわらず、1309年7月には3、4万人もの「十字軍兵士」がアヴィニョンに集った。その中の一部は、聖地への十字軍が出発する場として定められていたマルセイユにも到達した可能性がある。 「兄弟団」はクレメンス5世に対し、小規模なものと予定されていた十字軍を全面的な大十字軍に格上げして、自分たちに正統性を与え、聖地へ行く望みをかなえるよう求めた。教皇は7月25日、「十字軍」に参加した、もしくは彼らに資金援助したすべてのドイツ人に100年間の贖宥を与えたが、聖地への望みは船舶の不足により叶えることができなかった。聖ヨハネ騎士団は自分たちの船に「兄弟団」を便乗させることを断固として拒否した。そのため貧者十字軍は行き場を失い、解散せざるを得なくなった。ヘント年代記は、彼らがただ「混乱のうちに己が故郷に戻っていった」と伝えている。
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