「非感覚的な実在」と「弁証術」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 06:07 UTC 版)
「政治家 (対話篇)」の記事における「「非感覚的な実在」と「弁証術」」の解説
さらに客人は、字母を学習する子供たちが、「特定の一つの単語」だけでなく、「全ての単語」を学んで「正字法」全般に通じた者になることを目的としているのと同じように、今「政治家」の正体を探索している自分たちも、「全ての事柄」を論じられるように「弁証術(ディアレクティケー)」に熟達することが目的であることを指摘する。ソクラテスも同意する。 そして客人は、「有るもの(有)」には、 「感覚されるもの」 「感覚されない(写像を欠いている)もの」 の2種類があり、前者は類似(相違)関係を理解しやすく、論究も必要無いが、「この上なく高貴・偉大・尊厳な部類の実在」が含まれる後者は、「論理(弁証術)」によってしか示すことができないので、「論理(弁証術)」によって「説明を述べる」ことも、そうした説明に「耳を傾ける」ことも、どちらもできるように訓練を積む必要があることを指摘する。ソクラテスも同意する。 そして客人は、以上の話を踏まえた上で、「論理(弁証術)」的な説明・議論を評価(称賛・非難)する際には、 「「真の種類」に合致するように、「分割」できるようになるかどうか」という第一義的に尊重すべき「基準」 に依拠すべきであって、その「基準」に合うのであれば、その論究が長かろうが遠回りであろうが、嫌がらずに大いに熱意を燃やすべきだと指摘する。ソクラテスも同意する。 こうして補助的な議論を終えた客人とソクラテスは、再び「政治家」へと話題を戻し、「機織り術」という「類例」を適用しつつ、その探索を再開する。
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