「非情の番手捲り」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/23 01:51 UTC 版)
翌1986年、伊藤は2つめのGIタイトルを得ることになる。岡山の本田晴美が台頭してきて、同年のオールスター競輪決勝(いわき平競輪場)では本田の番手に入ることになった。果敢にホームから逃げた本田に対し、伊藤はがっちりと番手を固めた。佐々木昭彦-井上茂徳-中野浩一を引き連れた野原哲也を野原の同期・本田が突っ張りきると、伊藤の後ろに入った小門洋一と切り替えた井上で競りになる。伊藤の後ろが見えにくかったためか、最終2センター付近において、本田はその時点で流してしまったこともあって、伊藤は本田に力がなくなったと思って、本田を番手捲りした。伊藤はそのまま押し切って優勝を果たしたが、レース後、8着に終わった本田が暗に伊藤の番手捲りを批判。また伊藤も後日、「オールスターでは本田君に悪いことをした。」と謝罪表明する羽目になった。また小門洋一もレース前のコメントでは本田と同地区の伊藤に番手を譲ると言明していたが、レース後「伊藤が番手捲りに行くのなら、自分が本田の番手を競るべきだった。」と戦法を後悔したという。なお本田と小門は結局特別競輪のタイトルは無縁だった。 競輪マンガ、ギャンブルレーサーの作者田中誠は後年、オールスター競輪のビデオを見直した際に、伊藤が振り向いた時、高橋健二が捲りを放っており、それを見た後で番手捲りをしたことに気が付き、本人に確認をすると、伊藤は「あの後ろ振り向いた瞬間、誰だったかはわかんなかったけど、確かに捲りが来たのが見えたんだ。あの時やっぱ思ったのよ。モタモタして丸呑みされっちゃったら何にもならねえ。ハル(本田晴美)だって無駄死にさせちまう…」と答えている。 1988年、現在は共同通信社杯競輪の名称となっている、競輪発祥40周年記念レースとして平塚競輪場で開催された、「ルビーカップ・チャンピオン杯」に出場。道中は中野浩一ー井上茂徳ー伊藤で進み、打鐘で中野をイン切り後、滝澤正光の番手に飛びつき、直線で滝澤を差し、見事初代優勝者に輝いた。 伊藤のタイトル獲得歴は以上だが、以後も1997年頃まではGIには常時出場。その後は現役選手の傍ら、愛媛支部の支部長の職に就くなど、選手会の仕事にも尽力した。2008年3月31日、ホームバンクの松山で行われたA級決勝戦(8着)を最後に現役を引退。同年4月10日、選手登録を削除された。通算戦績2456戦405勝、優勝64回。 松山競輪場では彼を称え、2008年から伊藤豊明杯争奪戦が行われる。 2018年2月1日付で、日本名輪会入りした。
※この「「非情の番手捲り」」の解説は、「伊藤豊明」の解説の一部です。
「「非情の番手捲り」」を含む「伊藤豊明」の記事については、「伊藤豊明」の概要を参照ください。
- 「非情の番手捲り」のページへのリンク