きし‐しゅうどうかい〔‐シウダウクワイ〕【騎士修道会】
読み方:きししゅうどうかい
きししゅうどうかい 【騎士修道会】
騎士修道会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/12 05:07 UTC 版)
騎士修道会(きししゅうどうかい)は、主として十字軍時代に聖地エルサレムの防衛とキリスト教巡礼者の保護・支援を目的として創設された中世のローマ・カトリックの修道会[1]。単に騎士団とも。修道会の一形態であり、騎士は入会にあたり修道誓願(独身、私有財産の放棄、神への従順)を立て修道士となる必要があり、「戦う修道士」とも呼ばれた。多くの騎士修道会はローマ教皇保護のもと数々の「大特権 (libertas maior)」を与えられ、国家権力からの独立を保った[2]。騎士修道会は当時としては稀有な常備軍であり、十字軍や聖地エルサレムの防衛、イベリア半島と東ヨーロッパにおける戦いなど、異教徒との戦いにおいて歴史的に重要な役割を担った。
- ^ 当時修道士がよく行った節食や断食を、戦士でもある騎士が実践することを防ぐ意図の会則と考えられている。
- 1 騎士修道会とは
- 2 騎士修道会の概要
- 3 騎士修道会一覧
騎士修道会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 15:59 UTC 版)
十字軍の関係では、中世後期の騎士団の模範となった騎士修道会が創設された。 テンプル騎士団は敵意を持つ地元民や山賊からキリスト教巡礼者を守るのを手伝うために第1回十字軍が終わると創設されたキリスト教軍事組織であった。この騎士団は金融業に深く関わっていて、1307年、フィリップ恐怖王(Philippe le Bel)は騎士団全員をフランスで逮捕し、異端の疑いで告発し解散させた。1314年に密かにクレメンス5世により赦免された。 聖ヨハネ騎士団は元々貧しい人や病人、聖地への傷ついた巡礼のために活動するために1080年にエルサレムで創設されたキリスト教組織であった。エルサレムが第1回十字軍に奪取されると、聖地の管理と防衛にあたる組織に変化した修道会や騎士修道会になった。聖地が結局イスラーム教徒に奪取されると、活動の場をロドス島に、後にマルタに移した。 ドイツ騎士団は聖地へのキリスト教巡礼者を援助し病人や怪我人のためにウトラメールで病院を運営するためにアッコ市で1190年に編成されたドイツ騎士団であった。イスラーム教徒が聖地を奪取すると、騎士団は1211年にトランシルヴァニアに移動し、後に破門されると、バルト海のキリスト教化を目指して異教徒のいるプロシアを侵略した。騎士団にとっての主要な異教徒リトアニア大公国がキリスト教に改宗する前後に騎士団は既にノブゴロドやポーランドのような他のキリスト教国を攻撃していた。無視できなくなったドイツ騎士団の影響力は、1410年にポーランド・リトアニア・ロシア連合軍に破滅的な大敗を喫したタンネンベルクの戦いで粉砕された。タンネンベルクの戦いの後、騎士団は衰退し、1809年に正式に騎士団は解散した。全部で10回の十字軍が行われた。
※この「騎士修道会」の解説は、「中世盛期」の解説の一部です。
「騎士修道会」を含む「中世盛期」の記事については、「中世盛期」の概要を参照ください。
騎士修道会(宗教騎士団)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/20 09:52 UTC 版)
12世紀に第一次十字軍が占領した聖地エルサレムを守備するために、修道士となった騎士の集団としてテンプル騎士団が創設されたことを始まりとして、主に中東地域での活動を目的として騎士修道会が組織されていった。騎士修道会はローマ教皇により認可された修道会であり、各騎士は修道誓願を立てた修道士でもあった。彼等は私有財産の保有を禁じられ、一生の独身を誓い、克己、犠牲、清貧、服従の美徳に生きた。 騎士修道会は中世を通し、聖地エルサレムの防衛のみならず、レコンキスタやプロイセンへの入植における中核的戦力として歴史的に重要な役割を果たした。しかし、エルサレムが失われ十字軍運動が失敗すると、騎士修道会の存在意義も薄れていった。詳細は騎士修道会を参照。
※この「騎士修道会(宗教騎士団)」の解説は、「騎士団」の解説の一部です。
「騎士修道会(宗教騎士団)」を含む「騎士団」の記事については、「騎士団」の概要を参照ください。
「騎士修道会」の例文・使い方・用例・文例
- 騎士修道会
- 騎士修道会のページへのリンク