本郷元町カフェ・エランの女給へ
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「伊藤初代」の記事における「本郷元町カフェ・エランの女給へ」の解説
初代は芸者置屋の子守などをする中、19歳年上の元吉原の娼妓の山田ますと知り合った。山田ますは東京市本郷区本郷元町2丁目の壱岐坂(現・文京区本郷3丁目)のカフェ・エランを経営しマダムをしていた。カフェ・エランは、ますが夫・平出実(平出修の義理の甥)と一緒に開店した店で、平井修の親戚がやっているという縁で、谷崎潤一郎や佐藤春夫なども訪れたとされ、店の壁には、平出実が支援していた東郷青児の絵が飾られていたという。 「エラン」(Elan)は、フランス語で、「感激、高揚、活力、情熱」などの意味があり、「飛翔」の意味から、与謝野鉄幹あるいは与謝野晶子が名付けたとされる。店は主義者たちのアジトの役割もしており、平出実の知人の徳田球一、井之口政雄、百瀬二郎、折井仲三郎らも来ていた。しかし店を開いて1年経った頃、夫・平出実が店の女給・おしげ(本名・繁野)と駆け落ちしてしまい、傷心のますは百瀬二郎に励まされ、一旦閉めた店を続けていた。 初代は、そんなカフェ・エランに1918年(大正7年)以前から引き取られて、女給として働くようになり、親切な山田ますを「おばさん」と呼び慕っていた。その頃初代は、本郷弓町の坪井写真館で撮られた自分の写真(12歳の時の姉さまかぶりのたすき掛けのポーズや、13歳の桃割れの髪型姿)を郷里の父・忠吉宛てに「父上様」と付して送っていたが、それ以前の幼い2枚も発見されており、初代が父と別れてから毎年自分の写真を送っていたことが確認されている。 女手一つで店を切り盛りしていた山田ますは、無学であったため会計事務に不安があり、百瀬が折井仲三郎に頼み、慶應義塾大学医学部予科に通っていた藤森章(椿八郎)が帳簿付の学生として1920年(大正9年)4月から雇われ出した。椿は店の二階に下宿し、学校に持参する弁当や、紅茶やケーキのおやつ付の待遇で3か月間余りいた。 カフェ・エランはカフェとは名ばかりのミルクホールのような店で、テーブルが4、5脚とカウンターだけの簡素で家庭的な雰囲気であった。店員はマダムのますと初代と、もう1人田舎くさい女給の3人だったが、夏頃からコック見習の少年と、2人の女給が増えたと椿八郎は回想している。髪を日本髪(桃割れ)に結い、和服に白いエプロン姿で接客する初代は、ますの秘蔵っ子として育てられ、可愛さを引き立てるように飾り立てて店に出されていた。
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