失恋の記憶の整理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 02:48 UTC 版)
「抒情歌 (小説)」の記事における「失恋の記憶の整理」の解説
『抒情歌』の作品成立には、川端康成の青春を支配したといわれている初恋の少女・伊藤初代との失恋が、川端の内部で整理されて、10年後に客観的に顧みられた背景があるとされている。16歳(数え年)から孤児となっていた川端は、23歳で伊藤初代と別れ、さらに激しい虚無に落ち込み、その10年後の34歳の時に『抒情歌』を創作することで、初期の抒情文学が完成されていった。 伊藤初代は東京府東京市本郷区本郷元町2丁目の壱岐坂(現・文京区本郷3丁目)のカフェ・エランで女給をしていた少女で、1921年(大正10年)10月8日に川端と婚約したが、ほどなく11月17日に初代から「私はあなた様とかたくお約束を致しましたが、私には或る非常があるのです」という婚約破棄の手紙(いわゆる「非常」の手紙)を川端は受け取った。そして初代は忽然と川端の前から姿を消し、新たに勤めたカフェ・アメリカの支配人であったN(中林忠蔵)と結ばれた。 川端は初恋の失敗で失意の内にあったが、その後、当時移り住んだ『文藝時代』同人菅忠雄(菅虎雄の息子で『オール讀物』編集長)の家の留守を預かっていたお手伝いの女性・松林秀子と1926年(大正15年)4月から実質的な結婚生活をはじめ、約6年後の1931年(昭和6年)12月に婚姻届を出した。 川端は秀子と同棲中の1928年(昭和3年)5月に荏原郡入新井町大字新井宿字子母澤(のち大森区。現・大田区西馬込3丁目)に移り、その後すぐ同郡馬込町小宿389の臼田坂近辺(現・南馬込3丁目33)に居住し 、1929年(昭和4年)9月に下谷区上野桜木町44番地(現・台東区上野桜木2丁目)へ転居した。 なお、『抒情歌』が発表された翌月の3月初旬、伊藤初代(再婚し桜井初代)が川端宅を直接訪ねてきた。最初の夫・中林忠蔵と死別していた初代は、中林との間の長女を引き取ってほしいと頼みに来た。この体験は、その後『姉の和解』、『母の初恋』創作の題材となる。
※この「失恋の記憶の整理」の解説は、「抒情歌 (小説)」の解説の一部です。
「失恋の記憶の整理」を含む「抒情歌 (小説)」の記事については、「抒情歌 (小説)」の概要を参照ください。
- 失恋の記憶の整理のページへのリンク