川端文学に与えた影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 09:36 UTC 版)
川端康成が伊藤初代に強く惹かれた様々な要因の中の一因には、小学校も中退させられ、子守奉公に出された初代の生い立ちに不遇なものを見出し、両親の揃った恵まれた温かい一家団欒の中で子供時代を過ごせなかった彼女に、川端自身の孤児の境遇が重ねられていたこともあった。川端自身も以下で語るように、田中保隆は、川端が先験的に愛情を傾ける少女に共通する要素として、「いずれも市民社会での定着した生活的基盤を持っていなかったこと」、「寄る辺の少ない身の上であったこと」、「アウトサイダー的存在であったこと、しかもそこに気まぐれな遊びの気持が見られないこと」を挙げ、初代が〈非常〉の手紙で婚約解消した潔癖さから、彼女の処女性を推測している。 平和な家庭に育つた少女のほのぼのしさは、涙こぼれるありがたさで見惚れはしますけれども、私は愛する気にはなれないのです。とどのつまり、私には異国人なのでありませう。肉親と離れたがためにふしあはせに育ち、しかも自らはふしあはせだと思ふことを嫌ひ、そのふしあはせと戦つて勝つて来たけれども、その勝利のために反つて、これからの限りない転落の坂が目の前にあり、それを自らの勝気が恐れることを知らない、ざつとさういふ少女の持つ危険に私は惹きつけられるのです。さういふ少女を子供に帰すことによつて、自分もまた子供心に帰らうといふのが、私の恋のやうであります。ですから、いつも子供と大人との間くらゐの年頃の女に限られてをります。 — 川端康成「父母への手紙 第一信」 初代に対する川端の恋慕は、川端の初期作品の題材として大きな位置を占め、その婚約破談の痛手を癒すために過ごした伊豆湯ヶ島で、中学時代の小笠原義人の無償の愛や、一高2年の伊豆一人旅で出会った幼い踊子・加藤たみの無垢な好意を思い出すきっかけとなった。そこで綴られた107枚の草稿『湯ヶ島での思ひ出』から、『伊豆の踊子』『少年』という作品も生まれ、名作の成立過程にも少なからず影響を及ぼしている。 細川皓(川嶋至)は、『伊豆の踊子』の「薫」の造型には、伊藤初代の面影も重ねられているとし、「一件素朴な青春の淡い思い出をありのままに書き流したかにみえるこの『伊豆の踊子』という作品は、氏の実生活における失恋という貴重な体験を代償として生まれた作品だったのである」と考察している。板垣信は、『伊豆の踊子』の成立背景には、「失恋による傷心を純愛の思い出によっていやそうとする、作者の緊迫した心情」があるとし、それにより作品の抒情的世界への純化がいっそう深まっているとしている。 川西政明は、伊豆の踊子・たみが温泉場から真裸で飛び出して、手を振る天真爛漫な無邪気な姿に、〈子供なんだ〉と気づき、主人公である川端がさわやかな気持ちで〈ことことと〉笑いがこぼれる場面と、川端がカフェ・エランの鏡台のある部屋で偶然、初代の裸身を瞬間的に見た時に、「こんなに子供だつたのか」と驚いたことの共通性から、「川端にとり〈子供〉であることと処女であること、それが喪失するかしないかの危うい境界線上にある女性の存在がなにより大切なことであった」としている。そして、「初代と踊子を結ぶ回路」がそこにあることに気づいた川端が、初代との失恋を、どろどろした自然主義的な私小説で描くことには文学的な新しい世界が無いことを悟ったと川西は解説しながら、以下のように論じている。 初代が踊子に重なり、性の呪縛から解けただけでなく、旅芸人という虐げられた立場にある人間のなかから「美の原型」を掬い上げ得たことは、川端文学の基礎が築かれたことを意味した。川端が大正時代に経験した初代との恋と婚約と破婚、孤児の畸形性を克服するために赴いた伊豆の旅で旅芸人の一行と遭遇し一緒に旅をつづけたこと、この二つの偶然が一致する場所に川端文学が成立し、その「美しい日本」の映像が日本の文壇の一つの大きな特徴を作り出すことになってゆくのである。 — 川西政明「川端康成の恋」 そして、伊藤初代との10年ぶりの再会において、川端の心の中で描いていた初代の美しい少女の面影はなくなってしまうが、その原型の少女像や「美神」は新たな形に変化し、その文学作品の中で生き続けることになる。 森本穫は、川端の中で生き続けていた初代の面影の「美神」が、初代との再会により一旦崩壊してしまうが、それは川端の内部で密かに、「痛切な希求」として生き続け、成長したとし、初代の中で川端の愛が懐かしい思い出として残っていたことにより、「母の愛が娘のなかに生きつづけるという発想」の『母の初恋』や、養女として引き取った親戚の娘・黒田政子を描いた『故園』の無垢な少女として造型され、そこで川端が、「かつての伊藤初代に代わる、新しい〈美神〉を獲得した」と考察し、『故園』の少女と、『伊豆の踊子』の薫から寄せられた無償の愛、無心な好意の共通性を指摘している。
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