批判から受容へ
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当初、既存歌壇からは激しい反発を受けたものの、ふみ子の短歌は若手歌人からは強い支持を集めた。そして歌壇内では形式的にふみ子の作品を模倣した短歌が数多く詠まれるようになるという事態が発生した。 「短歌研究」五十首応募の特選後、「短歌研究」1954年6月号に「優しい遺書」が発表され、やはり「短歌」1954年6月号に川端康成の推薦文付きで「花の原型」が発表されると、歌壇の中でもふみ子の実力が確かであることを認める意見が増えてくる。ふみ子の短歌を最初に高く評価した歌人の一人が五島美代子であった。「母の歌人」と呼ばれた五島は、「乳房の喪失とその永生」において、「息を詰めるような絶唱である。ここに来て作者は、その失った乳房を永遠に得たのだと思う」と激賞した。 ふみ子没後の「短歌研究」1954年9月号には、ふみ子の遺詠とともに、森岡貞香の「ふたつの女人像 中城・葛原作品」が掲載される。森岡はふみ子と葛原妙子の作品を、芯の強い個性的なものであるとして高く評価した。 もちろんふみ子を発掘し、全国歌壇デビューに対する既存歌壇の非難に我慢がならなかった中井英夫は、ふみ子の短歌の価値を認めさせるべく様々な手段を取った。中井にとってみれば平明な日常詠に沈滞していた短歌復活の鍵は、中城ふみ子をトップランナーとする女流歌人が握っていた。ふみ子の価値を歌壇に認めさせること、それは歌壇の変革を目指していた中井からすると必要不可欠であった。例えば中井は1954年度の芥川賞作家の吉行淳之介、そしてやはり同年に直木賞を受賞した有馬頼義に依頼して、「短歌研究」誌上でふみ子擁護の論陣を張ってもらった。 そのような中で、「短歌」1955年3月号に葛原妙子は論文「再び女人の歌を閉塞するもの」を発表する。論文内で葛原は戦後短歌史における女流歌人の特性を説きながら、中城ふみ子を中心とした女流歌人の活躍を擁護し、前述の近藤芳美、山本友一らによる女流歌人の活躍を批判する論説に反論をした。「再び女人の歌を閉塞するもの」は、葛原の論文の中でも出色のものであると評価されている。 葛原は同論文の中で、ふみ子の歌集「乳房喪失」について 「乳房喪失」は、一口に言ふなら、混迷の中の人間の生き方の模索、それを象徴するものと云へよう。一人のエゴイスチックな女性の、鮮烈な生き方をとほして、それは如実に戦後社会を反映してゐる作品である。 と、評価した。 そして近藤芳美の女性歌人に対する批判には、近藤の要望通りに女流歌人が短歌を詠むようになれば、「女人の歌は再び閉塞の運命に見舞われはしないか」と、近藤の意見は女流歌人を萎縮させるものであると批判した。そして山本友一の批判に対しては、山本の言うように女流歌人の中にはいわゆる醜い情緒があることは事実であるが、その醜い情緒を歌に詠むことが、どうして歌人本人の良心の欠如や不誠実であると見なされなければならないのか、「私はこうです」と言うことがなぜ批判されなければならないのかと切り返した。 また塚本邦雄は「短歌研究」1954年12月号に「短歌の判らなさについて」を発表した。塚本はまず既存歌人の作品について取り上げ、厳しい批判を行った後、最後に「……自ら別に更に新しいピークと時代を創っていかねばならぬ。そして次のような作品こそいみじくも僕達の今日を暗示しているようだ」と書いた上で、中城ふみ子の短歌作品を取り上げた。塚本はふみ子の短歌作品に現代短歌の原点となるものを見たのである。
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