発表経過
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1955年(昭和30年)、文芸雑誌『群像』1月号に掲載され、同年7月20日に新潮社より刊行の単行本『ラディゲの死』に収録された。文庫版としては、1968年(昭和43年)9月15日に新潮文庫より刊行の『花ざかりの森・憂国――自選短編集』に収録された。 翻訳版は、ジョン・ベスター訳(英題:Sea and Sunset)、中国(中題:海與晩霞)などで行われている。
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発表経過
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1925年(大正14年)2月20日発行の同人誌『青空』2月号(第1巻第2号・通巻2号)に掲載された。その後、基次郎の死の前年の1931年(昭和6年)5月15日に武蔵野書院より刊行の作品集『檸檬』に収録された。同書には他に17編の短編が収録されている。
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発表経過
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1967年(昭和42年)、雑誌『オール讀物』10月号に掲載され、同時期発表の『アメリカひじき』と共に翌春に第58回(昭和42年度下半期)直木賞を受賞した。単行本は両作併せて1968年(昭和43年)3月25日に文藝春秋より刊行された。文庫版は新潮文庫より刊行されている。翻訳版はAlycia Davidson訳(英題: Grave of the Fireflies)をはじめ、各国で行われている。 作品は、刊行時に結末部に変更が加えられており、末尾の一段落が削除される一方、主人公の少年の遺体がほかの浮浪児たちの遺体とともに「布引の上の寺」で荼毘に付された日時が加えられている。削除された一段落には、布引の谷あいから飛び立った無数の蛍が、打ち捨てられた妹の骨のまわりを飛び交うという文章があり、妹の鎮魂にかかわる表現がより強く描かれていた。このためこの改筆は作品全体の評価や解釈にも関わるという指摘がある。直木賞の選考における海音寺潮五郎の選評(結末が明治調にすぎる、というコメントを含む)を受けたものとも説明されるが、野坂個人の妹に対する鎮魂と悔悟に根差した兄妹固有の物語であったものを、主人公を多くの戦災孤児たちの一人と描くことで、戦災孤児たちの鎮魂の物語として拡大したという解釈もある。
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発表経過
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1947年(昭和22年)、文芸雑誌『群像』4月号に掲載された。末尾には執筆日が「一九四六・九・廿一/――十一、十三」と記されている。同年11月20日に桜井書店より刊行の『岬にての物語』に収録された。文庫版としては、1955年(昭和30年)3月30日に角川文庫より刊行の『花ざかりの森 他六篇』に収録された。その後、1971年(昭和46年)1月25日に新潮文庫より刊行の『獅子・孔雀』にも収録された。これは三島が自死前に自選集として選んでいたもので、自作解説を付けるはずであったが、その死により不可能となった。翻訳版はイタリア(伊題:Il principe Karu e la principessa Sotōri)で行われている。
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発表経過
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1952年(昭和27年)、雑誌『新潮』10月号に掲載された。単行本は、翌年1953年(昭和28年)2月15日に創元社より刊行された。雑誌掲載時にあった末尾の2行は、単行本収録に当たって削除され、これが定稿となった。文庫版は1970年(昭和45年)7月15日に新潮文庫で刊行された。 翻訳版はエドワード・G・サイデンステッカー訳(英題:Death in Midsummer)をはじめ、イタリア(伊題:Morte di mezza setate)、ドイツ(独題:Tod in hochsommer)、フランス(仏題:La mort en été)、ポルトガル(葡題:Morte no verao)、中国(中題:仲夏之死)などで行われている。
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発表経過
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1963年(昭和38年)、雑誌『新潮』8月号に掲載され、同年の週刊誌『女性自身』11月11日号に再掲載された。同年12月10日に講談社より刊行の『剣』に収録された。文庫版は1970年(昭和45年)7月15日に新潮文庫より刊行の『真夏の死――自選短編集』に収録された。 翻訳版はジョン・ベスター訳(英題:Fountains in the Rain)でなされている。
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発表経過
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1958年(昭和33年)、文芸雑誌『新潮』4月号から翌年1959年(昭和34年)9月号まで「日記」のタイトルで連載された。単行本は1959年(昭和34年)11月30日に新潮社より『裸体と衣裳――日記』として刊行された。文庫版は新潮文庫で刊行されたが絶版となり、講談社文芸文庫の『三島由紀夫文学論集 II』に収録されている。
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発表経過
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初出は1946年(昭和21年)、川端康成の推薦により雑誌『人間』6月号に掲載された。 単行本としては、初出と同年の1946年(昭和21年)夏頃に刊行予定だった短編集に収録されるはずであったが、これは未刊となり、1947年(昭和22年)8月に桃蹊書房より刊行の『年刊創作傑作集第一號』に収録された後、1948年(昭和23年)12月1日に鎌倉文庫から刊行の『夜の仕度』に収録された。 その後、1949年(昭和24年)、雑誌『別冊八雲』9月号の〈小説三十人集〉、1956年(昭和31年)、雑誌『文藝』12月・増刊号の〈現代作家出世作全集〉欄に再掲載された。文庫版としては、1970年(昭和45年)7月15日に新潮文庫より刊行の『真夏の死――自選短編集』に収録された。 翻訳版はジョン・ベスター訳(英題:Cigarette)で行われている。
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発表経過
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1947年(昭和22年)から翌年にわたり、以下のように各章が断続的に別々の雑誌に掲載される形で書き継がれた。なお、起筆は前年1946年(昭和21年)の正月である。 1947年(昭和22年)「自殺企図者」 - 同人雑誌『文学会議』12月号のち第2章「決心とその不思議な効果」となる。 1948年(昭和23年)「恋の終局そして物語の発端」 - 雑誌『午前』2月号のち第1章「物語の発端」となる。 「出会」 - 雑誌『思潮』3月号のち第3章「出会」となる。 「嘉例」 - 雑誌『新文学』3月号のち第5章「周到な共謀(下)」となる。 「美的生活者」 - 雑誌『文学会議』10月号のち第4章「周到な共謀(上)」となる。 以上の章に書き下ろしの第6章「実行―短き大団円」を加えて、1948年(昭和23年)11月20日に単行本『盗賊』が真光社より刊行された。初出と単行本では若干の異同がある。文庫版は1954年(昭和29年)4月30日に新潮文庫より刊行された。 なお、一時完成を諦め、第1章の主要部分だけを短編「序章」と題して発表していた(掲載雑誌は不明)。この「序章」は1948年(昭和23年)12月1日に鎌倉文庫より刊行の『夜の仕度』に収録された。 翻訳版は、中国(中題:盗賊)で行われている。
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発表経過
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1946年(昭和21年)、文芸雑誌『群像』11月号に掲載された。末尾には執筆日が「20・7・9 - 20・8・23」と記されている。単行本は、翌年1947年(昭和22年)11月20日に桜井書店より刊行された。同書の扉には「夕日と海と黄金を愛する人に」というエピグラフが付された。その後1956年(昭和31年)、雑誌『文藝』5月・増刊号の〈廿代小説傑作全集〉と、1957年(昭和32年)、雑誌『小説春秋』1月号の〈昭和文壇出世作全集第一集〉に再掲載された。 文庫版としては、1955年(昭和30年)3月30日に角川文庫より刊行の『花ざかりの森 他六篇』、1978年(昭和53年)11月27日に新潮文庫より刊行の『岬にての物語』に収録された。なお、1968年(昭和43年)11月には、三島の名指しにより蕗谷虹児の装幀で豪華限定版も刊行された。翻訳版はイタリア(伊題:Storia di un promontorio)で行われている
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発表経過
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1955年(昭和30年)、文芸雑誌『文藝』9月号に掲載された。同年10月29日に劇団青年座により俳優座劇場で初上演され、第2回(1955年度)岸田演劇賞を受賞した。単行本は翌年の1956年(昭和31年)1月25日に新潮社より刊行された。文庫版は近年まで新潮文庫『熱帯樹』に収録されていたが、現在では絶版となっている。
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発表経過
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1966年(昭和41年)、週刊誌『女性自身』2月14日号から8月1日号まで「{をはりの美学}講座」として連載された(7月18日号は休載し、「ビートルズ見物記」を掲載)。単行本は、1970年(昭和45年)10月15日に文藝春秋より刊行の『行動学入門』に収録された。
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発表経過
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1946年(昭和21年)6月1日、雑誌『新潮』6月号(第43巻第6号)の「小説」欄に掲載され、翌年1947年(昭和22年)5月10日に中央公論社より単行本刊行された。文庫版は岩波文庫、新潮文庫などで刊行されている。翻訳版はGeorge Saitô訳(英題:The Idiot)をはじめ、各国で行われている。 なお現在、坂口安吾の直筆原稿を翻刻した版で読めるのは、筑摩書房の『坂口安吾全集 4』(1998年版)と、それを底本にしている岩波文庫だけとなっており、これらの版は、従来の「弾丸」「米機」「米軍」などが、坂口の原稿どおりの「敵弾」「敵機」「敵」に復元されている。
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発表経過
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1963年(昭和38年)、『東京新聞』夕刊の1月10日から5月23日まで(週1回)、20回連載された。単行本は翌年1964年(昭和39年)4月10日に講談社より刊行された。
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発表経過
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1962年(昭和37年)、雑誌『女性明星』12月創刊号から翌々年の1964年(昭和39年)12月号まで、「第一の性――男性研究講座」「第一の性――男性人物講座」(のちの刊行の際に「総論」「各論」となり、タイトル副題に「男性研究講座」が付いた)として連載された。単行本は1964年(昭和39年)12月30日に集英社より刊行された。
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発表経過
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1963年(昭和38年)、雑誌『芸術生活』8月号から翌1964年(昭和39年)5月号まで連載された。単行本はその翌年の1965年(昭和40年)8月20日に、集英社より『目――ある芸術断想』として刊行された。
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発表経過
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1958年(昭和33年)、雑誌『新潮』1月号に掲載され、同年4月30日に新潮社より刊行の『富士の初雪』に収録された。その後1962年(昭和37年)8月に新潮社より刊行の『川端康成全集 第11巻』や、1981年(昭和56年)3月20日刊行の新版『川端康成全集第8巻』に収録された。現行版は講談社文芸文庫より『再婚者・弓浦市』として刊行されている。
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発表経過
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川端康成は、1938年(昭和13年)に『東京日日新聞』(7月23日号-12月29日号)に「本因坊名人引退碁観戦記」を連載した後、1940年(昭和15年)1月の本因坊名人死去を受け、「本因坊秀哉名人」を雑誌『囲碁春秋』8月号から10月号まで掲載した。しかしこれは、川端の病により中断となった。 川端は2年後の 1942年(昭和17年)から新たに作品を書き始め、終戦をまたいで書き継ぐが一旦中絶し(未想熟版)、これに満足しなかった川端は稿を改めて1951年(昭和26年)から1954年(昭和29年)にかけて各雑誌に断続的に分載した(完成版)。その経過は以下のようになる。 未想熟版(プレオリジナル) 1942年(昭和17年)「名人」(序の章で中断) - 『八雲』8月号(第1号) 1943年(昭和18年)「夕日」 - 『日本評論』8月号と12月号 ※第6回(戦後最後の)菊池寛賞を受賞。 1944年(昭和19年)「夕日」(未完) - 『日本評論』3月号 1947年(昭和22年)「花」(「名人」と同じ。未完) - 『世界文化』4月号 1948年(昭和23年)「未亡人」 - 『改造』1月号 この八雲版(未想熟版プレオリジナル)の『名人』は、1949年(昭和24年)12月10日に細川書店より刊行の『哀愁』に収録され、1950年(昭和25年)5月に新潮社より刊行の『川端康成全集第10巻 花のワルツ』(全16巻本)に収録された。なお、「未亡人」は、本因坊名人の未亡人の死を書いた短篇で、刊行時に取り入れてられていない。 完成版 1951年(昭和26年)「名人」 - 『新潮』8月号 1952年(昭和27年)「名人生涯」 - 『世界』1月号 「名人供養」 - 『世界』5月号 1954年(昭和29年)「名人余香」- 『世界』5月号 定本『名人』 完本の『名人』と称されているものには2種類あり、上記の完成版の「名人」「名人生涯」「名人供養」の3篇をまとめた全41章と、この3篇に「名人余香」を加え、4篇をまとめた全47章(先の41章目は完全に取り払っている)がある。 「41章版」は、1952年(昭和27年)9月30日に新潮社より刊行の『川端康成全集第14巻 名人』(全16巻本)と、1960年(昭和35年)12月刊行の『川端康成全集第10巻 名人』(全12巻本)に収録された。 「47章版」は、1954年(昭和29年)7月10日に文藝春秋新社より刊行の『呉清源棋談・名人』に収録された。 この「41章版」と「47章版」のどちらを定本にするかは、川端研究者により意見が分かれており、未だに決着がついていない。 「41章版」を定本とする派は、「47章版」で出した本が『呉清源棋談・名人』しかないところから、川端自身が「41章版」を重んじ評価していたと主張し、「41章版」の終章の方が緊迫感のある「動」で終わり、筆が冴えているとしている。 「41章版」の文庫版は新潮文庫より刊行されている。また、観戦記他、囲碁に関連する諸作品については、1981年(昭和56年)8月刊行の『川端康成全集第25巻』(全37巻本)に収録されている。 翻訳版は、エドワード・サイデンステッカー訳(英題:The Master of Go)、閔丙山訳(韓題:Myeong In)、フランス(仏題:Le maître, ou le tournoi de Go)、セルビア・クロアチア(題:Vellemajstor)など世界各国で行われている。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 17:07 UTC 版)
1958年(昭和33年)、雑誌『世界』7月号から翌年1959年(昭和34年)3月号に連載され、同年7月5日に講談社より単行本刊行された。刊行に際して、初出誌版を大幅に加筆・改稿し、特に最終章の「少年」の登場場面には多くの加筆がなされ、また再刊にあたっても、印刷段階での数多くの脱落部分や誤植個所が修正され刊行された。文庫版は新潮文庫で刊行されている。翻訳版はD.E. Saunders 訳(英題:Inter Ice Age 4)をはじめ世界各国で行われ、高い評価を受けた。 なお、1966年(昭和41年)、雑誌『映画芸術』4月号に映画脚本化されたものも掲載されたが、映画化は実現しなかった。
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発表経過
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1937年(昭和12年)、雑誌『改造』12月号(第19巻第14号)に掲載された。単行本は1939年(昭和14年)6月3日に創元社より刊行された。刊行の際に若干の改稿がなされ、初出の発表誌では、冒頭に「無名の女」から「***様」に宛てた、600字ほどの献げる言葉が置かれていたが、単行本刊行の際に削除されている。 なお、続編(「ほととぎす」)は、1939年(昭和14年)、雑誌『文藝春秋』2月号(第17巻第3号)に掲載され、上記の単行本に同時収録された。のち1946年(昭和21年)7月15日に養徳社より刊行の『曠野抄』の収録された。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 05:35 UTC 版)
『朝日新聞』に1961年(昭和36年)10月8日から翌1962年(昭和37年)1月23日まで、107回にわたって連載された(1月2日は休刊)。挿絵は小磯良平が担当。ちなみに、作品連載中の11月3日に川端は文化勲章を授与された。 その後、会話部分の京都弁を井尻茂子の協力により訂正するなど加筆補正がなされ、「あとがき」を付して同年6月25日に新潮社より単行本刊行された。 なお、初出が新聞紙上のため、現代仮名遣いと、漢字は新字体の表記に合わせて連載され、単行本の際もそれが踏襲されたが、その後、1970年(昭和45年)5月10日刊行の『川端康成全集第12巻』(全19巻本)に収録の際には、全文、歴史的仮名遣いと正字体に戻され、新聞用表記での送り仮名(送り過ぎ)も是正された。 翻訳版はドイツ(独題:Kyoto oder Die jungen Liebenden in der alten Kaiserstadt, 1965)やJ・マーティン・ホルマン訳(英題:“The Old Capital”, 1987)をはじめ、イタリア(伊題:Koto, 1968)、フランス(法題:Kyōto, 1971)、中国(中題:古都, 1969 [台北])など世界各国で行われている。
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発表経過
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1926年(大正15年)10月1日発行の同人誌『青空』10月号(第2巻第10号・通巻20号)に掲載された。なお、初出の末尾には「九月十八日 飯倉片町にて」と付記されている。その後、基次郎の死の前年の1931年(昭和6年)5月15日に武蔵野書院より刊行の作品集『檸檬』に収録された。同書には他に17編の短編が収録されている。 翻訳版は、Stephen Dodd訳によりアメリカ(英題:The Ascension of K, or K's Drowning)、Christine Kodama訳によりフランス(仏題:L'ascension de K)で行われている。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 08:24 UTC 版)
1927年(昭和2年)2月1日発行の同人誌『青空』2月号(第3巻第2号・通巻24号)に前篇、4月1日発行の4月号(第3巻第4号・通巻26号)に後篇が掲載された。なお、後篇の末尾には「未完」と記されている。その後、基次郎の死の前年の1931年(昭和6年)5月15日に武蔵野書院より刊行の作品集『檸檬』に収録された。同書には他に17編の短編が収録されている。 翻訳版は、Stephen Dodd訳によりアメリカ(英題:Winter Days)、Christine Kodama訳によりフランス(仏題:Jours d'hiver)で行われている。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 13:33 UTC 版)
1948年(昭和23年)、雑誌『進路』1月号に掲載された。脱稿日は1947年(昭和22年)11月14日の日付が記入されている。単行本としては、同年12月1日に鎌倉文庫から刊行の『夜の仕度』に収録された。その後、1966年(昭和41年)春にプレス・ビブリオマーヌより豪華限定版『サーカス』が刊行された。文庫版としては、1970年(昭和45年)7月15日に新潮文庫より刊行の『真夏の死――自選短編集』に収録された。 なお、初稿(未発表)は戦争末期に書かれており、1945年(昭和20年)2月22日に、野田宇太郎が編集長だった雑誌『文藝』に持ちこまれたが、キスシーンがあったため不採用となった。 翻訳版はAndrew Rankin訳(英題:The circus)で行われている。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 07:35 UTC 版)
1928年(昭和3年)3月1日発行の同人雑誌『文藝都市』3月・第2号に掲載された。その後、基次郎の死の前年の1931年(昭和6年)5月15日に武蔵野書院より刊行の作品集『檸檬』に収録された。同書には他に17編の短編が収録されている。 翻訳版は、Robert Allan Ulmer、Stephen Dodd訳によりアメリカ(英題:Blue Sky)で行われている。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 08:38 UTC 版)
1932年(昭和7年)1月1日発行の文芸雑誌『中央公論』新年特別号に掲載された。その後、基次郎の死の2年後の1934年(昭和9年)3月24日に六蜂書房より刊行の『梶井基次郎全集 上巻』に収録された。 翻訳版は、Robert Allan Ulmer、Stephen Dodd訳によりアメリカ(英題:The Easygoing Patient、または The Carefree Patient)で行われている。
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発表経過
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1930年(昭和5年)6月16日発行の同人誌『詩・現実』創刊号・第一冊に掲載された。その後、基次郎の死の前年の1931年(昭和6年)5月15日に武蔵野書院より刊行の作品集『檸檬』に収録された。同書には他に17編の短編が収録されている。 翻訳版は、Stephen Dodd訳によりアメリカ(英題:Caress)、Christine Kodama訳によりフランス(仏題:Caresses)で行われている。
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発表経過
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1942年(昭和17年)6月1日、文芸雑誌『文藝』6月号(第10巻第6号)の「小説」欄に掲載され、翌1943年(昭和18年)10月に大観堂より刊行の単行本『真珠』に初収録された。しかし再版の刊行は禁じられ、その後、坂口生前の単行本に収録されることはなかった。 坂口没後は、1968年(昭和43年)4月に冬樹社より刊行の『定本坂口自身全集 第2巻』に収録された。文庫版は『白痴・二流の人』(角川文庫)などで刊行されている。翻訳版はJames Dorsey訳(英題:Pearls)で行われている。
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発表経過
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1946年(昭和21年)10月1日、雑誌『新生』臨時増刊号(小説特集号)第1号に「戦争と一人の女」掲載された。ゲラ刷りの段階でGHQの検閲により多くの文章が大幅削除されたために、翌月11月1日、雑誌『サロン』11月号(第1巻第3号)小説特集号に「続戦争と一人の女」が発表された。末尾には、安吾自身の注記で「新生特輯号の姉妹作」と付されている。 その後はこの「続」の方を「戦争と一人の女」と改題し、1947年(昭和22年)5月15日刊行の単行本『いづこへ』に初収録された。最初に掲載された『新生』版の方は、同一状況の展開を、男側の視点で綴られているが、『サロン』版は、女の視線で語られている(安吾の初の女語りの作品)。闇に葬られていた『新生』版は、安吾の没後の1971年(昭和46年)12月に刊行の『定本坂口安吾全集 第13巻』(冬樹社)に初収録され、以降、『新生』版が「戦争と一人の女」として復帰した。
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発表経過
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1944年(昭和19年)、雑誌『現代文學』1月号(第7巻第1号)〈前年12月28日発行〉に「黒田如水」(のち「第一話 小田原にて」の「一」と「二」)が掲載され、「黒田如水」の続編(「第一話 小田原にて」の「三」以降と、「第二話 朝鮮で」と「第三話 関ヶ原」)を書き下ろしで追加した『二流の人』が、戦後の1947年(昭和22年)1月30日に、火野葦平が主宰する出版社・九州書房より「中篇小説新書」の一冊として単行本刊行された。 その後、「第二話 朝鮮で」の「三」の部分を、短編『我鬼』の内容と組み換えた改訂版が1948年(昭和23年)1月に思索社より刊行された。『我鬼』は1946年(昭和21年)9月、雑誌『社会』 創刊号に掲載されたものである。なお、1998年(平成10年)刊行の『坂口安吾全集 4』(筑摩書房)には、初出稿の九州書房版が収録され、別途に『我鬼』も収録されている。文庫版は角川文庫『白痴・二流の人』で刊行されている。角川文庫は思索社版(改訂版)である。
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発表経過
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1966年(昭和41年)、文芸雑誌『群像』10月号に掲載され、1967年(昭和42年)3月6日に中央公論社より作品集『荒野より』として単行本刊行された。文庫版は中公文庫より1975年(昭和50年)1月10日に刊行された(現在は絶版となっている)。 翻訳版は、Estrellita Wasserman訳によりフランス(仏題:Du fond des solitudes)で行われている。
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発表経過
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1930年(昭和5年)、雑誌『改造』11月号(第12巻第11号)に掲載され、翌々年の1932年(昭和7年)2月20日に堀自身の装幀で江川書房より単行本刊行された。文庫版は新潮文庫の『燃ゆる頬・聖家族』、岩波文庫の『菜穂子・他五編』に収録されている。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 05:55 UTC 版)
1924年(大正13年)10月1日、同人雑誌『文藝時代』創刊号(第1巻第1号)に掲載され、翌1925年(大正14年)6月、文藝日本社より刊行の『無禮な街』(新字:無礼な街)に収録された。 雑誌『文藝時代』は、川端康成、石浜金作、今東光、中河与一、横光利一ら、計14人の同人で創刊され、川端が「創刊の辞」を書いている。誌名も川端の発想で名付けられた。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 14:41 UTC 版)
この作品は1961年1月から8月にかけて『婦人公論』に連載された短編連作集『影の車』の第2話として、同誌の1961年2月号で発表された。 清張は『婦人公論』1960年12月号で、連載小説予告として次のような文を書いている。 中篇の連作をひき受けることになった。中篇は長篇とは異なった独特の味を出せるので、それを生かして、毎月新鮮な題材にいどみたいと意欲を燃やしている。推理小説のすぐれた読者である女性たちに、どれだけ楽しんでいただけるか、中篇の限界いっぱい、その効果の追及を試みてみたいと思う。 — 『婦人公論』1960年12月号 実際に連載したものは短編としては長めの作品であるが、清張は毎回のテーマ選びに苦労していた。連載の当時、『婦人公論』で清張の担当編集者を務めていた澤地久枝は「五十枚ずつの短篇連作「影の車」は、毎月テーマ探しが問題で、「何か面白い話はないかね」という軽い会話は、担当者にとって千金の重みがあった」と証言している。 『婦人公論』という女性向け雑誌への発表ということで、清張は政治や経済などの社会派推理的なテーマを避けて人間心理と犯罪との光と影を作品共通の通奏低音として扱い、女性読者を強く意識した作品群を仕上げた。 この作品は、1962年と1966年にテレビドラマ化された。1962年のドラマは青山京子、小笠原良知、井川比佐志などが出演し、8月2日(前編)、8月3日(後編)がNHKで放送された。1966年のドラマは梓みちよ、成瀬昌彦などが出演してKTVで放送された。 翻訳では、『万叶翡翠』という題名で中国語訳されている。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 01:43 UTC 版)
この作品の発表は、アメリカ合衆国とソビエト連邦が冷戦のただ中にある時期であった。清張には兵器としての核や原水爆に対する怒りがあり、それが切迫した核への恐怖に対して人々や政府はどのように行動するかを描くこの作品につながった。 同盟国からの核弾頭ミサイル誤射から始まる『神と野獣の日』は、「女性自身」1963年2月18日号-6月24日号に連載された。清張自身は「科学は苦手」としていて、SFにも苦手意識を持っていたという。そしてSF的設定や近未来を扱った作品はパンデミックを題材にとった『赤い氷河期』(1988年-1989年)とこの『神と野獣の日』くらいである。 同年9月15日、カッパ・ノベルズから単行本として発行された。講談社文庫からは1982年8月15日に鏡明の解説付きで刊行された。角川文庫では1973年10月30日に刊行され、2008年に東野圭吾の推薦を得て改版初版が発行された(解説は権田萬治)。 講談社文庫と角川文庫改版での主な違いは、前者が「プロローグ」に始まって「あと四十分」、「二十八分十秒前」、「修正時間」…「あと十分」、「あと三分」、「着弾」、「歓喜」と目次が細分化されているのに対して、後者では目次の細分化が廃されている点である。角川文庫改版はその後も版を重ねて2021年6月5日に11版が刊行され、電子書籍化もされている。ただし、全66巻におよぶ清張の全集には収録されていない。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 15:39 UTC 版)
1928年(昭和3年)5月発行の雑誌『創作月刊』5月号に掲載された。その後、基次郎の死の前年の1931年(昭和6年)5月15日に武蔵野書院より刊行の作品集『檸檬』に収録された。同書には他に17編の短編が収録されている。 翻訳版は、Robert Allan Ulmer、Stephen Dodd訳によりアメリカ(英題:Flies of Winter"、または "Winter Flies)、Jean-Pierre Giraud & Sumitani Hirobumi訳によりフランス(仏題:Mouches hivernales)、Stefan Wundt訳によりドイツ(独題:Fliegen im Winter)で行われている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/10 05:41 UTC 版)
1936年(昭和11年)、スタア社発行の雑誌『333』12月号に掲載され、翌年1937年(昭和12年)6月12日に創元社より刊行の『雪國』に収録された。その後1946年(昭和21年)4月25日に単行本『夕映少女』が丹頂書房より刊行された。なお、1977年(昭和52年)刊行の集英社文庫版などは『夕映え少女』と表記されているが、1980年(昭和55年)刊行の新版『川端康成全集第5巻』では原題通り『夕映少女』となっている。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/12 15:35 UTC 版)
1964年(昭和39年)、雑誌『新潮』6月号(第61巻第6号)から連載開始されたが、2度のブランク(オスロでの国際ペンクラブ大会出席と、睡眠薬や疲労からの肝臓炎による入院)やノーベル文学賞受賞による多忙などもあり、1968年(昭和43年)10月号(第65巻第10号)を最後に途絶のまま放置され、1972年(昭和47年)4月の川端の死により未完作となった。 雑誌『新潮』に断続的に連載された全22回の経過を以下に記載する。 第1回:1964年(昭和39年)6月号 第2回:1965年(昭和40年)2月号 第3回から第8回:1965年(昭和40年)4月号から9月号 第9回から第10回:1965年(昭和40年)11月号から12月号 第11回から第12回:1966年(昭和41年)1月号から2月号 第13回から第14回:1967年(昭和42年)11月号から12月号 第15回から第18回:1968年(昭和43年)2月号から5月号 第19回から第22回:1968年(昭和43年)7月号から10月号 以上の未完の全22回の全文は、川端没後の1972年(昭和47年)6月刊行の『新潮臨時増刊・川端康成読本』にまとめて再掲載された。その後、川端が生前、修正を書き加えていた初出雑誌の切抜が発見され、それを基に川端香男里が校訂し、同年9月30日に新潮社より単行本が刊行された。文庫版としては1996年(平成8年)1月10日に講談社文芸文庫より出版された。 単行本刊行に当たっては、川端の校正で縦の棒線による抹消指示のあった初出連載時の第12回中の5行分のエピソード(ゴヤについての所)が削除された。また、第15回の約1ページ分(久野が稲子の髪の毛先を切った挿話)を川端が、後のストーリー部に入れ直すことを企図して〈後の事〉と付記していたため、その部分は本文から削除された(この2つの削除部分は、付録の「覚書」内で記載されている)。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 00:20 UTC 版)
1934年(昭和9年)、雑誌『文藝春秋』10月号(第12巻第10号)に「物語の女」(のち「楡の家」第一部)が掲載された。この一編は単行本『物語の女』に収録され、同年11月20日に山本書店より刊行された。約7年後の1941年(昭和16年)、雑誌『中央公論』3月号(第56巻第3号)に「菜穂子」が掲載され、同年、雑誌『文學界』9月号(第8巻第9号)に「目覚め」(「楡の家」第二部)が掲載された。 これら全ての編を合わせた単行本『菜穂子』は同年11月18日に創元社より刊行され、翌年1942年(昭和17年)3月に第一回(昭和16年度)中央公論社文藝賞を受賞した(賞金は当時の金額で3千円)。文庫版は岩波文庫の『菜穂子・他五編』に収録されている。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 12:41 UTC 版)
吉田健一は後の総理大臣、吉田茂の長男として1912年に誕生した。吉田は外交官だった父の赴任に従って20歳のころまでイギリスやフランス、中国などで暮らし、優れた語学力と豊かな生活感覚を体得した。彼は生涯政界とは無縁の生き方を貫き、文学以外のことは何もせずに貧しい経済状態を耐え抜いてエッセーや評論を執筆し、そして数多くの翻訳書を手がけた。そんな彼が小説を執筆し始めたのは、40歳を過ぎたころからであった。 吉田は1970年、58歳のころに最初の長編小説『瓦礫の中』を発表し、1974年の『埋れ木』にいたるまであわせて6冊の長編小説を刊行した。『東京の昔』は彼の長編小説中、第5作目にあたる。この作品は、文芸誌「海」に1973年5月から11月まで計7回連載された。連載のときは新字新かなだった。 単行本としては、旧字旧かなで1974年3月1日に中央公論社から刊行された。文庫版では1976年5月に中公文庫版(新字新かな)が入江隆則の解説で、ちくま学芸文庫からは島内裕子の解説で2011年に新字新かなで刊行されている。 その他の収録では、『吉田健一著作集第22巻』(旧字旧かな、集英社、1980年)や『吉田健一集成7』(旧字旧かな、新潮社、1993年)がある。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/28 13:59 UTC 版)
「不器用な天使 (小説)」の記事における「発表経過」の解説
1929年(昭和4年)、雑誌『文藝春秋』2月号(第7巻第2号)に「無器用な天使」として掲載された(ただし目次には「不器用な天使」とある)。なお、文末には「1928年11月」の日付が付されているが、新潮社の元版全集の脚注ではその年の「夏稿」と注解されている。単行本は処女作品集(他18作品収録)として掲載翌年の1930年(昭和5年)7月3日に改造社より刊行された。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 08:33 UTC 版)
1926年(大正15年)、雑誌『文藝時代』1月号(第3巻第1号)に「伊豆の踊子」、2月号(第3巻第2号)に「続伊豆の踊子」として分載された。単行本は翌年1927年(昭和2年)3月20日に金星堂より刊行された。なお、刊行に際しての校正作業は梶井基次郎がおこなった。 翻訳版はエドワード・サイデンステッカー訳(英題:The Izu Dancer)、Eiichi Hayashi、J. Martin Holman訳(英題:The Dancing Girl of Izu)をはじめ、ドイツ(独題:Die kleine Tänzerin von Izu、Die Tänzerin von Izu)、中華人民共和国(中題:伊豆的舞女、伊豆的舞孃)、ポルトガル(葡題:A pequena dançarina de Izu)、イタリア(伊題:La danzatrice di Izu)、大韓民国(韓題:이즈의 무희)、スペイン(西題:La danzarina de Izu)、オランダ(蘭題:De danseres uit Izu)、ロシア(露題:Танцовщина из Иззу)、フランス(仏題:La danseuse d'Izu)など世界各国で行われている。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 05:02 UTC 版)
1933年(昭和8年)、雑誌『改造』7月号(第15号第7号)に掲載された。なお、この際の編集担当は徳廣巌城(上林暁)だった。初出誌では一部に伏字が行われた。単行本は、翌年1934年(昭和9年)4月19日に改造社より刊行の『水晶幻想』に収録された後、その翌年1935年(昭和10年)5月20日に野田書房より刊行された。 翻訳版はエドワード・サイデンステッカー訳(英題:Of Birds and Beasts)をはじめ、韓国(韓題:금수、禽獣)、中国(中題:禽獣)、イタリア(伊題:Ucelli e altri animali)、ドイツ(独題:Von Vögeln und Tieren)、スペイン(西題:Sobre pájaros y animales)、フランス(仏題:Bestiaire)など世界各国で行われている。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 00:21 UTC 版)
1933年(昭和8年)、『大阪朝日新聞』6月25日号(日曜日)に、まず「山からの手紙」(のち「序曲」)が掲載され、同年、雑誌『改造』10月号(第15巻第11号)に「美しい村 或は 小遁走曲」、雑誌『文藝春秋』10月号(第11巻第10号)に「夏」が掲載された。その翌年の1934年(昭和9年)、雑誌『週刊朝日』3月18日号(第25巻第13号)に「暗い道」が掲載された。 以上4編をまとめた『美しい村』は、冒頭にゲーテの『ファウスト』(訳:森鷗外)第二部からの一節をエピグラフとして加え、1934年(昭和9年)4月20日に 野田書房より単行本刊行された。文庫版は新潮文庫の『風立ちぬ・美しい村』ほか、岩波文庫、角川文庫で刊行されている。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 11:24 UTC 版)
『雪国』は、最初から起承転結を持つ長編としての構想がまとめられていたわけではなく、以下のように複数の雑誌に断続的に各章が連作として書き継がれた。 1935年(昭和10年)「夕景色の鏡」 - 『文藝春秋』1月号 「白い朝の鏡」 - 『改造』1月号 「物語」 - 『日本評論』11月号 「徒労」 - 『日本評論』12月号 1936年(昭和11年)「萱の花」 - 『中央公論』8月号 「火の枕」 - 『文藝春秋』10月号 1937年(昭和12年)「手毬歌」 - 『改造』5月号 以上の断章をまとめ、書き下ろしの新稿を加えた単行本『雪国』は、1937年(昭和12年)6月12日に創元社より刊行され、7月に第3回文芸懇話会賞を受賞した。さらに続篇として以下の断章が各誌に掲載された。 1940年(昭和15年)「雪中火事」 - 『公論』12月号 1941年(昭和16年)「天の河」 - 『文藝春秋』8月号 1946年(昭和21年)「雪国抄」(「雪中火事」の改稿) - 『暁鐘』5月号 1947年(昭和22年)「続雪国」(「天の河」の改稿) - 『小説新潮』10月号 以上の続篇を加えて最終的な完成作となり、「続雪国」まで収録した完結本『雪国』は、「あとがき」を付して翌1948年(昭和23年)12月25日に創元社より刊行された。 その後、新潮社より1949年(昭和24年)6月刊行の『川端康成全集第6巻』(全16巻本)や、1960年(昭和35年)6月刊行の『川端康成全集第5巻』(全12巻本)に収録の際と、さらに1971年(昭和46年)8月に牧羊社より『定本雪国』刊行の際にも、川端本人による斧鉞が加えられた。また川端死後の1972年(昭和47年)12月には、原稿復刻版『雪国抄』がほるぷ出版より刊行された。 本人の斧鉞後の定稿は、1980年(昭和55年)4月刊行の『川端康成全集第10巻』(全37巻本)に収録され、前述に並列した斧鉞前のプレ・オリジナル版は同年10月刊行の『川端康成全集第24巻』(全37巻本)に収録されている。 エドワード・サイデンステッカー訳(英題:Snow Country)をはじめ、ドイツ(独題:Schneeland)、イタリア(伊題:Il paese delle nevi)、中国(中題:雪国、雪郷)、フランス(仏題:Pays de neige)など、世界各国語の翻訳版が出版されている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 15:29 UTC 版)
1941年(昭和16年)、雑誌『文藝文化』9月号から12月号に掲載された。単行本は戦争中の1944年(昭和19年)10月15日に七丈書院(のち筑摩書房へ統合)より、処女短編集『花ざかりの森』として刊行された。同書には他に4編の短編が収録された。文庫版は、1968年(昭和43年)9月15日に新潮文庫より刊行の『花ざかりの森・憂国――自選短編集』に収録された。 翻訳版は、イタリア(伊題:La foresta in fiore)、中国(中題:繁花盛開的森林 または鮮花盛時的森林)行われている。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 00:25 UTC 版)
1936年(昭和11年)、雑誌『改造』12月号(第18巻第12号)に、先ず「風立ちぬ」(のち「序曲」「風立ちぬ」の2章)が掲載された。翌年1937年(昭和12年)、雑誌『文藝春秋』1月号(第15巻第1号)に「冬」、雑誌『新女苑』4月号(第1巻第4号)に「婚約」(のち「春」)が掲載された。翌年1938年(昭和13年)、雑誌『新潮』3月号(第35巻第3号)に終章「死のかげの谷」が掲載されたのち、同年4月10日、以上を纏めた単行本『風立ちぬ』が野田書房より刊行された。現行版は新潮、岩波文庫などから重版され続けている。翻訳版はアメリカ(英題:The Wind Has Risen)、フランス(仏題:Le vent se lève)、中国(華題:風吹了、起風了)などで刊行されている。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/16 06:32 UTC 版)
1963年、雑誌「婦人公論」臨時増刊号に発表された。1964年、文藝春秋社から「浮遊昆虫」「皿倉学説」などと合わせて単行本化された。1974年、『松本清張全集38 皿倉学説』に収録された。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 05:12 UTC 版)
1950年(昭和25年)12月12日から1951年(昭和26年)3月31日まで『朝日新聞』に109回にわたって連載された新聞小説で、単行本は連載終了同年の7月15日に朝日新聞社より刊行された。文庫版は新潮文庫で刊行されている。 翻訳版は、ドイツ、中国、スペインで行われている。
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発表経過
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1952年(昭和27年)に複数の文芸雑誌などに以下のように連載された。 『サンパウロ新聞』2月19日号 - 「小邑ヴィラサビノ」(のち「南米紀行―ブラジル」〈リンス〉) 未詳4月 - 「航海日記」 『群像』4月号 - 「あめりか日記」(のち「北米紀行」〈序曲、ハワイ、桑港、羅府、ニューヨーク、フロリダ、San Juan〉) 『新潮』5月号 - 「リオ・デ・ジャネイロ」(のち「南米紀行―ブラジル」〈リオ―転身―幼年時代の再現〉) 『中央公論』5月号 - 「サン・パウロの「鳩の町」―南米紀行」(のち「南米紀行―ブラジル」〈サン・パウロ、再びリオ・デ・ジャネイロ、謝肉祭〉) 『別冊文藝春秋』6月号(28号) - 「南米紀行」(のち「南米紀行―ブラジル」〈リンス〉) 『婦人公論』7月号 - 「憂鬱なヨーロッパ」(のち「欧州紀行」〈ジュネーヴにおける数時間、パリ―シルク・メドラノ、ロンドン及びギルドフォード〉) 『近代文学』8月号 - 「フォンテエヌブロオへのピクニック」(のち「欧州紀行」〈パリ―フォンテエヌブロオへのピクニック〉) 『芸術新潮』7月号 - 「希臘・羅馬紀行」(のち「欧州紀行」〈アテネ及びデルフィ、ローマ〉) 未詳7月 - 「旅の思ひ出」(書き下ろし) 以上をまとめた単行本『アポロの杯』は、1952年(昭和27年)10月5日に朝日新聞社より刊行された。その後、1954年(昭和29年)3月刊行の『三島由紀夫作品集6』再録にあたり、図版や三島が創作した詩劇アンティノウス「鷲ノ座――近代能楽集ノ内」と、それを改編した短編小説「アンティノウス」(未完の草稿)が付加された。 翻訳版は、イタリアのMaria Chiara Migliore訳(伊題:La coppa di Apollo)、中国の申非・林青化訳(中題:阿波羅之杯)で行われている。 なお、『アポロの杯』には収録されなかったが、同旅行の紀行エッセイには以下のようなものがある。 『羅府新報』2月9日号 - 「髭とロタサン」 『朝日新聞』3月5日号 - 「旧教安楽―サン・パウロにて」 『朝日新聞』3月29日号 - 「リオの謝肉祭」 『朝日新聞』5月4日号 - 「パリの芝居見物―パリにて」 『朝日新聞』5月22日号 - 「パリにほれず」 『週刊朝日』6月8日号 - 「遠視眼の旅人」
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発表経過
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1967年(昭和42年)、雑誌『別冊文藝春秋』9月号(101号)に掲載され、同時期発表の『火垂るの墓』と共に翌春に第58回(昭和42年度下半期)直木賞を受賞した。単行本は両作併せて1968年(昭和43年)3月25日に文藝春秋より刊行された。文庫版は新潮文庫より刊行されている。翻訳版はアメリカ(英題:American Hijiki)をはじめ、各国で行われている。
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発表経過
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『雪国』や『山の音』同様、『千羽鶴』も最初から起承転結を持つ長編としての構想がまとめられていたわけではなく、1949年(昭和24年)から1951年(昭和26年)にかけて各雑誌に断続的に断章が連作として書きつがれたが、一章ごとが独立の鑑賞に堪え、全体として密度が高い小説となっている。 1949年(昭和24年)「千羽鶴」 - 『読物時事別冊』5月号(第3号) 挿絵:猪熊弦一郎 「森の夕日」 - 『別册文藝春秋』8月号(第12号) 1950年(昭和25年)「絵志野」 - 『小説公園』3月号(第1巻第1号) 「母の口紅」 - 『小説公園』11月号(第1巻第8号) 挿絵:佐藤泰治 「続母の口紅」 - 『小説公園』12月号(第1巻第9号)挿絵:佐藤泰治 1951年(昭和26年)「二重星」 - 『別冊文藝春秋』10月号(第24号) 以上をまとめた単行本『千羽鶴』が1952年(昭和27年)2月10日に筑摩書房より刊行され、1951年(昭和26年度)読売ベスト・スリーに選ばれ、1951年(昭和26年度)の芸術院賞を受賞した。 『千羽鶴』の続編となる『波千鳥』(なみちどり)の断章は、『小説新潮』に以下のように連載された。 1953年(昭和28年)「波千鳥」 - 4月号(第7巻第5号) 挿絵:佐藤泰治 「旅の別離」(のち「旅の別離」1章から3章) - 5月号 「父の町」(のち「旅の別離」4章と5章) - 6月号 「荒城の月」(のち「旅の別離」6章と7章) - 9月号 「新家庭」(のち「新家庭」1章と2章) - 10月号 「波間」(のち「新家庭」3章と4章) - 12月号 1954年(昭和29年)「春の目」 - 3月号 「妻の思ひ」 - 7月号(第8巻第9号) これ以降は取材ノートが盗難にあったために、上記の8回までで中断された。そして、章として完結している「波間」までの6回の断章をまとめた未完作が『千羽鶴』の続編として、1956年(昭和31年)11月25日に新潮社より刊行の『川端康成選集第8巻 千羽鶴』(全10巻本)に初収録された。 なお、削除された7回の「春の目」と8回の「妻の思ひ」の章は、川端没後の1982年(昭和57年)1月刊行の『川端康成全集第22巻・未刊行作品集(2)』(全37巻本)に収録された。『千羽鶴』と続編『波千鳥』と合わせた文庫版は1989年(平成元年)11月15日に新潮文庫より刊行された。 翻訳版はエドワード・サイデンステッカー訳(英題:Thousand Cranes)、ドイツ(独題:Tausend Kraniche)、イタリア(伊題:Mille gru)など世界各国で行われている。
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1961年(昭和36年)1月、雑誌『小説中央公論』3号・冬季号の〈現代代表作家二十人創作集〉に掲載され、同年1月30日に新潮社より刊行の短編集『スタア』に収録された。のち1966年(昭和41年)6月に河出書房新社より刊行の『英霊の聲』にも、戯曲『十日の菊』と共に二・二六事件三部作として纏められた。なお、この刊行にあたって、当時の実状をよく知る加盟将校の1人(当時陸軍歩兵大尉)の末松太平からの助言により、「近衛輜重兵大隊」を「近衛歩兵第一聯隊」に改めた。 文庫版としては、1968年(昭和43年)9月15日に新潮文庫より刊行の『花ざかりの森・憂国――自選短編集』に収録された。その後、1997年(平成9年)に『中央公論』11月・臨時増刊号の〈激動の昭和文学〉に再掲載された。翻訳版はGeoffrey W. Sargent訳(英題:Patriotism)をはじめ、世界各国で行われている。 1965年(昭和40年)4月には、自身が製作・監督・主演・脚色・美術を務めた映画『憂國』が製作された。映画は翌年1966年(昭和41年)1月、ツール国際短編映画祭劇映画部門第2位となり、同年4月からなされた日本での一般公開も話題を呼び、アート系の映画では記録的なヒットとなった。また同時に映画の製作過程・写真などを収録した『憂國 映画版』も1966年4月10日に新潮社より刊行された。
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第一部『禁色』は1951年(昭和26年)、雑誌『群像』1月号から10月号まで連載された(11月号に第一部の結末を変更する「改訂広告」を掲載)。単行本『禁色 第一部』は同年11月10日に新潮社より刊行された(連載時と異なる結末)。 第二部は『秘楽』(ひぎょう)と題されて1952年(昭和27年)、雑誌『文學界』8月号から翌年1953年(昭和28年)の8月号まで連載された。単行本『秘楽 禁色 第二部』は同年9月30日に新潮社より刊行された。第一部と第二部の間に、10か月の休止期間があるのは、作者が世界旅行中のためである(詳細はアポロの杯を参照)。 なお、雑誌連載時の第一部(第18章まで)の結末は、鏑木夫人が失踪の後、自殺する終わり方となっていたが改訂されて、生きかえらせている。三島はその理由について、〈夫人を自殺させることは、当初のプランでもあつたが、(中略)計画どほりに夫人を殺してから、私は早まつたと思つた。この人物には書くにつれて愛着が増して来てをり、殺すには惜しい女だつたからである〉と述べている。 翻訳版は、Alfred H. Marks訳(英題:Forbidden Colors)をはじめ、イタリア(伊題:Colori proibiti)、フランス(仏題:Les Amours interdites)、中国(中題:禁色)などで行われている。
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発表経過
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1966年(昭和41年)、文芸雑誌『文藝』6月号に掲載され、同年6月30日に河出書房新社より、作品集『英霊の聲』として単行本刊行された。この本には、『憂国』と戯曲『十日の菊』も収録され、「二・二六事件三部作」として纏められた。 オリジナル版の文庫本は2005年(平成17年)10月20日に河出文庫より刊行された。翻訳はイタリア語(伊題:La voce degli spiriti eroici)で行われている。
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発表経過
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1960年(昭和35年)1月、雑誌『聲』(6号)に掲載され、同年1月7日に文学座により、第一生命ホールで初演された。1962年(昭和37年)3月20日に新潮社より刊行の『三島由紀夫戯曲全集』に収録され、その後1986年(昭和61年)2月25日に新潮文庫より『熱帯樹』が刊行された。 翻訳版は、Kenneth Strong訳(英題:Tropical Tree)をはじめ、フランス(仏題:L’arbre des tropiques)、ポルトガル(葡題:Dozewo tropików)などで行われている。
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発表経過
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文芸雑誌『新潮』に、先ず1965年(昭和40年)9月号から1967年(昭和42年)1月号にかけて『春の雪』が連載され、同年2月号から1968年(昭和43年)8月号にかけては『奔馬』、同年9月号から1970年(昭和45年)4月号にかけては『暁の寺』、同年7月号から1971年(昭和46年)1月号にかけては『天人五衰』が連載された。 単行本は、1969年(昭和44年)1月5日に『春の雪(豊饒の海・第一巻)』、同年2月25日に『奔馬(豊饒の海・第二巻)』、1970年(昭和45年)7月10日に『暁の寺(豊饒の海・第三巻)』、1971年(昭和46年)2月25日に『天人五衰(豊饒の海・第四巻)』が新潮社より刊行された。文庫版は各巻新潮文庫より刊行されている。 翻訳版は、『春の雪』『奔馬』は英米のMichael Gallagher訳(英題:Spring Snow、Runaway Horses)、イタリア(伊題:Neve di primavera、Cavalli in fuga)、『暁の寺』は英米のCecilia Segawa Seigle、D.E. Saunders訳(英題:Temple of Dawn)、イタリア(伊題:Il tempio dell'alba)、『天人五衰』は英米のエドワード・G・サイデンステッカー訳(英題:The Decay of the Angel)、イタリア(伊題:La decomposizione dell'angelo)をはじめ、世界各国で行われている。
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発表経過
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1954年(昭和29年)、雑誌『新潮』1月号(第51巻第1号)から12月号(第51巻第12号)に連載され(全12回)、翌年1955年(昭和30年)4月15日に新潮社より単行本刊行された。その際に大幅な加筆訂正がなされ、連載第11回の後半と第12回の全文が削除された。 この時に川端は当時の編集担当者へ未完作である旨を伝えたとされる。削除された回の章は、新潮社より刊行の『川端康成全集第18巻 小説18』(1980年3月)の「解題」中に掲載されている。 翻訳版は月村麗子訳(英題:“The Lake”)をはじめ、スペイン(西題:El lago)、韓国(韓題:湖水)、フランス(仏題:Le lac)など世界各国で行われている。
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発表経過
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1954年(昭和29年)、雑誌『文學界』8月号に掲載された。単行本は2年後の1956年(昭和31年)6月30日に角川書店より刊行された。同書には他に10編の短編が収録されている。文庫版としては、1968年(昭和43年)9月15日に新潮文庫より刊行の『花ざかりの森・憂国――自選短編集』に収録された。 翻訳版は、Ian Hideo Levy訳(英題:The Boy Who Wrote Poetry)、中国(中題:寫詩的少年)などで行われている。
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1965年(昭和40年)、文芸雑誌『文藝』11月号に掲載され(舞台図の挿絵:秋山正)、同年11月15日に河出書房新社より単行本刊行された。初演は前日11月14日から11月29日に劇団NLT+紀伊國屋ホール提携公演として、丹阿弥谷津子ら出演で紀伊國屋ホールで上演され、昭和40年度芸術祭賞演劇部門賞を受賞した。 翻訳版はドナルド・キーン訳(英題:Madame de Sade)を始め、マンディアルグ訳によりフランス(仏題:Madame de Sade)、アラビア(剌題:al-Sayyida Di Sad)スウェーデン(典題:Markisinnan de Sade)、イタリア(伊題:Madame de Sade)、ドイツ(独題:Madame de Sade)などで行われている。
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発表経過
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当時の『新青年』の編集長、水谷準は、探偵作家の絶対数が不足しており、科学方面の記事をうまく書きこなす筆者を求めており、工学士で作家でもある海野十三に、文章が記せて、『新青年』風の感覚が理解できそうな科学者の物色を頼んでいた。水谷の要望に適した作家として、海野が紹介した作家が木々であり、「網膜脈視症」という題名を水谷は、「舌をかみそうな題名」と評している。原稿の記し方も、達筆で、1行20字の枠に1~2字不足する位にはみ出しており、木々が相当に原稿用紙を使いこなしている人物であると判断したという。 私は疑いながらその短篇を一読したが、今更改めていうまでもなく、大いに感動した。題材もさることながら、その行文にはそれまでの探偵作家が持っていなかった一種の「張り」みたいなものがあって、それがぐんぐんと読むものを引きつけるのを感じた(昭和32年12月、『別冊宝石』) 著者自身の回想によると、昭和9年頃、海野十三は膝詰め談判で探偵小説を執筆するように、木々に勧めた、という。半分しかできなければ、後の半分は自分が記すという手紙も送っている。これに対し、木々は夏休みの避暑地で本作を書き上げている。作品は、海野・水谷両者の検閲を経ており、木々以上に作品の出来を心配したのは海野十三で、水谷準が「とにかくいゝよ」とぶっきらぼうに答えた時の安心した顔が印象的であったという。 それまでに木々は、江戸川乱歩や海野十三、ヴァン・ダイン、エラリー・クイーン、クロフツらの諸作に慣れ親しんでおり、生理学者の領域を出て、医学随筆家として注目されていた。このことを見逃さなかった海野十三によって、探偵作家木々高太郎は誕生し、処女作『網膜脈視症』は誕生したのである。 掲載にあたっても破格の扱いで、4段抜きの新聞広告で、以下のように記されていた。 コーナン・ドイル日本に再生す。その筆致、その構想。堂々たる本格派、精神分析を探偵小説に取入れて、はじめて成功せる新人作家の処女力作、山路に渇して噴泉を見出だしたる喜び ただし、「編集だより」では小酒井不木と同一視されており、医学者出身という共通点はあれども、作風や小説観の相違などは注目されてはいなかったようである。
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1927年(昭和2年)、雑誌『山繭』2月号(第2巻第6号)に初稿(前半部。文末に「断片」の語入り)が掲載され、1929年(昭和4年)、雑誌『創作月刊』1月号(第2巻第1号)にその改稿が掲載された。翌1930年(昭和5年)、雑誌『作品』5月号(創刊号)に定稿(全文)が掲載された。 初稿の改稿版(前半部分のみ)は、1930年(昭和5年)7月3日に改造社より刊行の処女作品集『不器用な天使』に収録され、完成された定稿版(全文)は、1933年(昭和8年)2月1日に江川書房より単行本刊行された(限定300部)。文庫版は講談社文芸文庫の『風立ちぬ・ルウベンスの偽画』、新潮文庫の『燃ゆる頬・聖家族』、岩波文庫の『菜穂子・他五編』に収録されている。
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発表経過
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1968年(昭和43年)、雑誌『中央公論』7月号に掲載され、初版単行本は翌年1969年(昭和44年)4月25日に新潮社より刊行された。同書には他の評論や講演も収録されている。 翻訳版は、フランス語(仏題:Défence de la culture)で雑誌『Esprit』『février』(1973年)に掲載された。
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発表経過
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1958年(昭和33年)、文芸雑誌『群像』5月号に掲載され、同年5月30日に新潮社より単行本刊行された。初演は同年7月8日に文学座により、第一生命ホールで上演され、週刊読売新劇賞を受賞した。その後1986年(昭和61年)2月25日に新潮文庫より『熱帯樹』に収録された。
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1928年(昭和3年)5月1日発行の同人詩誌『近代風景』(北原白秋・萩原朔太郎主宰)に掲載され、同年12月5日発行の季刊同人誌『詩と詩論』第二冊に再掲載された。その後、基次郎の死の前年の1931年(昭和6年)5月15日に武蔵野書院より刊行の作品集『檸檬』に収録された。同書には他に17編の短編が収録されている。 翻訳版は、Stephen Dodd訳によりアメリカ(英題:Instrumental Illusions)、Christine Kodama訳によりフランス(仏題:Hallucinations instrumentales)で行われている。
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1964年(昭和39年)、文芸雑誌『文藝』2月号に掲載され、同年2月25日に新潮社より『喜びの琴 附・美濃子』として単行本刊行された。初演は同年5月7日に日生劇場で上演された。
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発表経過
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初出は「文学界」1980年1月号である。当初は見開き2頁の予定で連載を始めたが、次第に長くなってきて1年の間でかなりの分量となった。 大岡自身は、若年の一時期と旅行中の他には日記を書く習慣はなかったという。日記を書き始めたのは、『成城だより』の執筆を始める4-5年前のことであった。この時分に物忘れの悪化を自覚して以来、簡単な日録を記すのが大岡の習慣となった。「文学界」への連載開始に際して、この日録をふくらませて発表用に仕立て上げたのが『成城だより』である。 『成城だより』は好評を得ていたが、大岡は連載を同年12月号で1度中断した。その理由は、1回分が長くなるにつれて時間が取られ、彼にとっての長年の懸案だった『富永太郎全集』に注力できなかったことにあった。単行本『成城だより』(の後記で大岡は「それらの仕事(注:『富永太郎全集』を指す)を片付けて、まだ余力があったら再開の予定です」と予告していた。 連載の再開は「文学界」1982年3月号で、1983年2月号まで続いた。大岡によると、『成城だより』の連載が1980年1-12月号だったために、実際には1979年11月から翌年10月までの内容になってしまったので、1月から12月に収まるように調整したものであるという。 この連載も好評で「もっと続けろ」という話が出ていた。しかし、大岡は晩年の課題として『富永太郎全集』と「堺事件」を完遂するまでは、友人や先輩などの全集に寄稿する月報や追悼文など以外には何も書かずにいる覚悟を持っていた。そのため、1983年4月発行の単行本『成城だよりII』後記で「そしてまた余命と、エネルギーが残っていたら、再開します」と予告し、単行本表題を『成城だよりII』として『III』の執筆があり得ることを自らへの課題とした。 大岡は連載を1985年3月号に再開し、1986年2月号で終了した。単行本『成城だよりIII』の後記(1986年3月6日付)で大岡は「私は満七十七歳に達したところである。(中略)個人的に仕遂げなければならない仕事をいくつか持っているが、その時間があるか、前途を思えばただ茫洋とするばかりである」と結んだ。
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1960年(昭和35年)、雑誌『新潮』1月号(第57巻第1号)から6月号までと、翌年1961年(昭和36年)1月号から11月号(第58巻第11号)まで、合間に約半年のブランクを挟んで連載された。17回にわたる連載ながら全量は中編で、各回は原稿用紙平均10枚程度のものだった。 連載6回目と7回目の間の空白休止期間は、アメリカ国務省の招きによる渡米と、ブラジル・サンパウロでの国際ペンクラブ大会出席などの多忙が一因とみられる。連載終了後は、内容に沿って全体を5話の構成で章分けし、同年11月30日に新潮社より単行本刊行された。 翻訳版はエドワード・サイデンステッカー訳(英題:House of the Sleeping Beauties)をはじめ、中国(中題:眠美人)、フランス(仏題:Les Belles Endormies)、スペイン(西題:La Casa de las Bellas Durmientes)、イタリア(伊題:La Casa delle Belle Addormentate)、ドイツ(独題:Die schlafenden Schonen)など世界各国で刊行されている。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 09:18 UTC 版)
1960年(昭和35年)、文芸雑誌『新潮』9月号に掲載され、1961年(昭和36年)1月30日に新潮社より刊行の『スタア』に収録された。文庫版としては、1968年(昭和43年)9月15日に新潮文庫より刊行の『花ざかりの森・憂国――自選短編集』に収録された。なお、その後1996年(平成8年)に、雑誌『新潮』7月・臨時増刊号の〈新潮名作選 百年の文学〉に再掲載された。 翻訳版は、エドワード・G・サイデンステッカー訳(英題:Three Million Yen)をはじめ、イタリア(伊題:Tre millioni di yen)、ドイツ(独題:Drei millionen yen)、フランス(仏題:Trois millions de yens)などで行われている。
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発表経過
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菊池寛が京都帝国大学英文科を卒業する年の1916年(大正5年)の2月に同人誌の第四次『新思潮』が復刊され、その5月号・第1年第3号に「屋上の狂人」は掲載された。その際に、それまでの第三次『新思潮』で使用していた筆名「草田杜太郎(もりたろう)」から、本名の「菊池寛」を用いるようになった。本名に変えた動機に関しては特に語られておらず不明であるが、卒業を間近にひかえていた時期であることから、今後文壇に乗り出すためには文学青年風の筆名よりも本名の方がいいと思ったからではないかと推察されている。 『新思潮』時代、菊池の戯曲はほとんど注目されなかったため、京大を7月に卒業し時事新報社社会部の記者の職に就きながら、戯曲より小説の方の執筆に重きを置くようになった菊池は、1918年(大正7年)に『中央公論』に発表した「無名作家の日記」や「忠直卿行状記」で文壇に認められ、その後芥川龍之介の伝手で大阪毎日新聞の客員となり1920年(大正9年)に新聞連載した通俗小説「真珠夫人」で流行作家として世間に広く認知された。それを機に無名新人時代の戯曲「父帰る」などが舞台上演され、その流れで「屋上の狂人」も翌年1921年(大正10年)2月に帝国劇場で初上演された。 単行本の刊行は、新潮社から1919年(大正8年)1月8日に上梓された『心の王国』に収録され、翌1920年(大正9年)4月10日に同社から刊行された『藤十郎の恋』にも収録された。 全集収録は、春陽堂から1921年(大正10年)5月21日刊行の『菊池寛戯曲全集 第1巻』に収録された。その後は平凡社から1929年(昭和4年)6月10日刊行の『菊池寛全集 第3巻』、中央公論社から1937年(昭和12年)6月21日刊行の『菊池寛全集 第1巻』に収録された。
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発表経過
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1952年(昭和27年)10月、文藝春秋『文學界』に掲載された。
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発表経過
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1947年(昭和22年)11月1日、『風刺文学』(第一巻第五号)に掲載された。
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発表経過
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1946年(昭和21年)6月1日、文学時標社『文学時標』(第九号)に掲載された。
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発表経過
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1969年(昭和44年)、文芸雑誌『群像』11月号に掲載された。原稿末尾には「(昭和四四、八、三〇)」と脱稿日が記入されている。単行本は、三島の死後である翌々年の1971年(昭和46年)3月5日に講談社より自筆原稿完全復元の限定版で刊行され、同年5月6日に刊行の評論集『蘭陵王―三島由紀夫 1967.1 - 1970.11』にも収録された。その後1988年(昭和63年)、雑誌『群像』5月号(創刊500号記念特別号・群像短篇名作選)に再掲載された。文庫版は1980年(昭和55年)2月25日に新潮文庫より刊行の『鍵のかかる部屋』に収録されている。 翻訳版は、中国(中題:蘭陵王)で行われている。
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発表経過
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1961年(昭和36年)、『文學界』12月号に掲載され、初演はその号の発売直後の11月29日に文学座により第一生命ホールで上演された。単行本は、翌年1962年(昭和37年)3月20日に新潮社より刊行の『三島由紀夫戯曲全集』に初収録されたのち、1966年(昭和41年)6月30日に河出書房新社より刊行の作品集『英霊の聲』に、二・二六事件三部作(英霊の聲、憂国、十日の菊)の一つとして収められた。
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発表経過
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「蘭陵王 (三島由紀夫)」の記事における「発表経過」の解説
1969年(昭和44年)、文芸雑誌『群像』11月号に掲載された。原稿末尾には「(昭和四四、八、三〇)」と脱稿日が記入されている。単行本は、三島の死後である翌々年の1971年(昭和46年)3月5日に講談社より自筆原稿完全復元の限定版で刊行され、同年5月6日に刊行の評論集『蘭陵王―三島由紀夫 1967.1 - 1970.11』にも収録された。その後1988年(昭和63年)、雑誌『群像』5月号(創刊500号記念特別号・群像短篇名作選)に再掲載された。文庫版は1980年(昭和55年)2月25日に新潮文庫より刊行の『鍵のかかる部屋』に収録されている。 翻訳版は、中国(中題:蘭陵王)で行われている。
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発表経過
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「若きサムライのための精神講話」の記事における「発表経過」の解説
1968年(昭和43年)、雑誌『Pocket パンチ Oh!』6月創刊号から翌年1969年(昭和44年)5月号に連載された。初版単行本は1969年(昭和44年)7月10日に『若きサムラヒのために』の題名で、日本教文社より刊行された。同書には他2編の評論と3話の対談が収録され、平成初頭まで多数重版された。なお、連載時と単行本の章の順配列は異なっている。文庫版は1996年11月10日に文春文庫より刊行された。 翻訳版は、イタリア(伊題:Lezioni spirituali per giovani samurai)で行われている。
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発表経過
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1966年(昭和41年)、文芸雑誌『群像』1月号に掲載され、1967年(昭和42年)3月6日に中央公論社より刊行の作品集『荒野より』に収録された。その他、中公文庫より1975年(昭和50年)1月10日に刊行の文庫版『荒野より』や、多くの怪奇系アンソロジーに収録されている。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 05:18 UTC 版)
1958年(昭和33年)10月、雑誌『聲』創刊号に1章と2章途中まで掲載された後、翌年1959年(昭和34年)9月20日に書下ろしで新潮社より「第一部」「第二部」の2冊同時に単行本刊行された。発売1か月で15万部売れた。合冊の文庫版は1964年(昭和39年)10月5日に新潮文庫より刊行された。翻訳版はマティルデ・マストランジェロ訳によりイタリア(伊題:La casa di Kyōko)、ポーランド(波題:Dom Kyoko)で行われている。 第一部の起稿日は1958年(昭和33年)3月17日で、脱稿日は翌年1959年(昭和34年)1月3日、第二部の起稿日は同年1月5日で、脱稿日は同年6月29日である。約1年3か月の執筆期間の間、三島は原稿用紙にして947枚書いており、単純計算すると、1日2枚のペースだが、その間、お見合い、結納、結婚式、新婚旅行、ビクトリア風コロニアル様式の新居の建築(大田区南馬込)、長女の誕生など、私生活の多忙があり、実際には1日に3 – 5枚のペースだったとされている。
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発表経過
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「ドルジェル伯の舞踏会」の記事における「発表経過」の解説
ラディゲは『ドルジェル伯の舞踏会』を18歳から20歳(1921年から1923年9月末)にかけて書き上げたが、その後1923年11月末頃に突如、体調を崩して腸チフスと診断され、パリのピッシニ街の病院に入院し、病床で校正刷をチェックしながら治療に専念していた。しかし快方には向かわずに、そのまま12月12日に20歳の短い生涯を閉じた。『ドルジェル伯の舞踏会』はラディゲの遺作となり、死後の1924年7月にBernard Grassetより書き下ろし出版された。翻訳版は現在まで世界各国で行われている。 ラディゲの死後に出版された『ドルジェル伯の舞踏会』について、第三者(ジャン・コクトー、ジョゼフ・ケッセルなど)がテキストに手を加えたらしいとの噂が当時からささやかれていた。ケッセルは「純粋に物理的、文法的な訂正」にとどまる校正は行ったと認めていたが、その後の研究で1924年1月、ラディゲが生前最後に残した校正刷りに基づき出版社が20部だけ印刷した部数限定版と、7月に刊行された初版との間に700個所以上の異同が確認された。渋谷豊によると、うち600個所以上は「純粋に物理的、文法的な訂正」の域を超えて文章を簡潔にしたり一部がカットされるなどしており、文意が取れなくなってしまった個所もあるなど「書き直しもしくは改竄だった」としている。ただ、同時に執筆中のラディゲに対してコクトーが助言を惜しまず、タイプ原稿にコメントや修正案を書き込んだり、題名を『ドルジェル伯の舞踏会』とするよう提案するなど、同作がラディゲとコクトーの共作といえる部分があったことも述べている。現在、フランスで出版されている『ドルジェル伯の舞踏会』の普及版はコクトーらの手が加わった初版に基づいており、部数限定版によるテキストは2003年刊の批評校訂版で初めて採用された。
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発表経過
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「世界の終わりに柴犬と」の記事における「発表経過」の解説
作者の石原は、2017年5月からツイッターを利用している。『世界の終わりに柴犬と』は本人の弁(単行本1巻あとがき)によると、「只々自由に好きなものを描く為だけに」ツイッターを発表媒体として始めたものである。 人間世界が滅亡していたり、犬や動物たちが普通に喋ったり、人外の存在がいろいろと登場してきたりする理由については作中では明示されない。石原の目的は、そのような疑問やしがらみから解き放たれた「”自由”な世界」を舞台にして物語を描くことであった。石原は唯一変わらないものとして「犬と飼い主の関係性」に言及した。ハルさんは「犬としてのパートナー」、ご主人は「ハルさんのご主人」として存在し、彼女の名前を出さない理由はご主人とハルさんの間にそれ以外の関係性がないという判断を挙げた。 同作は累計のリツイートが30万に達する人気作となり、KADOKAWAのWebマンガサイト、ComicWalkerでも2018年3月27日から配信を開始した。同年11月21日には、16ページの描き下ろし短編「10年後の君と」を収録した単行本第1巻(フルカラー)がKADOKAWAから発売された。単行本は2019年11月22日に第2巻、2020年12月23日に第3巻が発売されている。
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発表経過
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「ベルカ、吠えないのか?」の記事における「発表経過」の解説
作者の古川は、1998年に書きおろし小説『13』(幻冬舎)でデビューした。その後『アラビアの夜の種族』(2001年、角川書店)や村上春樹作品のトリビュート小説『中国行きのスロウ・ボートRMX』(2003年、メディアファクトリー。後に『二〇〇二年のスロウ・ボート』と改題の上文春文庫に収録)を経て、『ベルカ、吠えないのか?』の刊行に至った。 『ベルカ、吠えないのか?』は、古川が発表した9作目の本である。書きおろしとしては6冊目にあたり、文藝春秋から2005年4月に発売された。 『ベルカ、吠えないのか?』は、同年の第133回直木三十五賞(2005年上半期)の候補作となった。古川にとって、これが同賞への初候補作であった(選考の結果、朱川湊人の『花まんま』が受賞した)。 2008年に『ベルカ、吠えないのか?』は文春文庫から上梓された。文庫版のカバーでは、「炸裂する言葉のスピードと熱が衝撃的な、エンタテイメントと純文学の幸福なハイブリッド」とのキャッチコピーが添えられた。なお、文庫版には古川によるあとがきと、キスカ島の4頭から始まる犬たちの家系図が付加されている。 日本国外では、英語(英題:Belka, why don't you bark? )、フランス語(仏題:Alors Belka, tu n'aboies plus ?)、イタリア語(いずれも2012年)、ロシア語(2014年、題:Белка, голос! )にも翻訳されている。英語版(マイケル・エメリック訳、VIZ Media LLC)は、SF&ファンタジー英訳作品賞佳作に選ばれた。
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発表経過
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1925年(大正14年)、雑誌『文藝春秋』8月号(第3年第8号)に「十七歳の日記」、翌9月号(第3年第9号)に「続十七歳の日記」として連載された。以上が「十六歳の日記」と改題され、1927年(昭和2年)3月に金星堂より刊行の『伊豆の踊子』に収録された。この作品を収録するように勧めたのは梶井基次郎であった。 その後1948年(昭和23年)8月に新潮社より刊行の全16巻全集の『川端康成全集第2巻 温泉宿』の巻末に付された「あとがき」中で本作に言及している2章目を「あとがきの二」として、1959年(昭和34年)11月刊行の全12巻全集の『川端康成全集第1巻 伊豆の踊子』収録の際に付け加えられた。 翻訳版はJ. Martin Holman訳(英題:Diary of My Sixteenth Year)、韓国(韓題:16歳의日記)、ドイツ(独題:Tagebuch eines Sechzehnjáhrigen)、スペイン(西題:Diario de un muchacho)、中国(中題:十六歳日記)などで行われている。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 23:50 UTC 版)
1928年(昭和3年)12月5日発行の季刊同人誌『詩と詩論』第2冊に掲載された。その後、基次郎の死の前年の1931年(昭和6年)5月15日に武蔵野書院より刊行の作品集『檸檬』に収録された。同書には他に17編の短編が収録されている。 翻訳版は、ジョン・ベスター・Stephen Dodd訳によりアメリカ(英題:Beneath the Cherry Trees、またはUnder the Cherry Trees)、Christine Kodama訳によりフランス(仏題:Sous les cerisiers)で出版されている。
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発表経過
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川端康成は1937年(昭和12年)から1938年(昭和13年)にかけて、雑誌『婦人公論』に長編『牧歌』を執筆し始めたが、この作品は〈序の口までしか書けなかつた〉と川端自身がいうように長編小説とはならなかったが、それから1年半ほど経た1940年(昭和15年)に川端は再び、雑誌『婦人公論』に連載の筆を取った。しかしそれは『牧歌』の続編でなく、それぞれ独立した短編であった。休載の月もあったが、こうした経過で9編の短編が出来上がった。 そのうちの最初の短編が『母の初恋』で、1940年(昭和15年)、雑誌『婦人公論』1月号に掲載された。単行本は同年12月に新声閣より刊行の『正月三ヶ日』に収録され、翌年1941年(昭和16年)12月8日に新潮社より刊行の『愛する人達』にも収録された。文庫版は新潮文庫『愛する人達』に収録されている。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 16:12 UTC 版)
初出は『中日新聞(朝刊)』1981年9月9日から12月29日、『東京新聞(朝刊)』1981年9月9日から12月29日である。100回の予定で連載が開始されたが、10回延長した。新聞連載の予告として、1981年9月4日の『中日新聞(朝刊)』、『東京新聞(朝刊)』に作者の言葉が掲載されており、岡田資に10年以上興味を持ち、書きたいと思っていたこと、連載小説が実現できた喜びが記されている。1982年5月に新潮社から単行本が刊行された。1986年に新潮文庫、2007年に角川文庫になっている。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 15:13 UTC 版)
『巡査の居る風景』の初出は、同時期に書かれた習作『蕨・竹・老人』と共に「短篇二つ」という総題を付し、1929年(昭和4年)6月に第一高等学校の校内誌『校友会雑誌』第322号に掲載された。掲載する際に『巡査の居る風景』だけだと「左翼のように思われる」という懸念から、「毒消し」の意味で「牧歌的な伊豆の話」の『蕨・竹・老人』と併せて中島は投稿した。 書籍収録は、中島没後の1949年(昭和24年)6月10日に筑摩書房から出版された第一次『中島敦全集 第3巻』が初収録となっている。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 15:00 UTC 版)
1926年(大正15年)8月1日発行の同人誌『青空』8月号(第2巻第8号・通巻18号)に掲載された。その後、基次郎の死の前年の1931年(昭和6年)5月15日に武蔵野書院より刊行の作品集『檸檬』に収録された。同書には他に17編の短編が収録されている。 翻訳版は、Robert Allan Ulmer、Stephen Dodd訳によりアメリカ(英題:A Landscape of the Soul または Landscapes of the Heart)、Guido Woldering訳によりドイツ(独題:Landschaft einer Seele)で行われている。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 15:00 UTC 版)
1928年(昭和3年)7月1日発行の同人雑誌『文藝都市』7月号に掲載された。その後、基次郎の死の前年の1931年(昭和6年)5月15日に武蔵野書院より刊行の作品集『檸檬』に収録された。同書にはほかに17編の短編が収録されている。 翻訳版は、Stephen Dodd訳によりアメリカ(英題:Certain Feelings on a Cliff Top)で行われている。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/28 14:32 UTC 版)
1968年(昭和43年)、文芸雑誌『文學界』12月号に掲載され、同年12月5日に新潮社から単行本刊行された。初演は翌年の1969年(昭和44年)1月18日、劇団浪曼劇場第1回公演として紀伊國屋ホールで上演された。 翻訳版は佐藤紘彰訳(英題:My Friend Hitler)、イタリア(伊題:Il mio amico Hitler)で行われている。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 14:57 UTC 版)
1930年(昭和5年)9月22日発行の同人誌『詩・現実』第二冊に掲載された。その後、基次郎の死の前年の1931年(昭和6年)5月15日に武蔵野書院より刊行の作品集『檸檬』に収録された。同書には他に17編の短編が収録されている。 翻訳版は、Robert Allan Ulmer、Stephen Dodd訳によりアメリカ(英題:The Scroll of Darkness またはScroll of Darkness)で行われている。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 13:42 UTC 版)
1964年(昭和39年)、雑誌『中央公論』1月号から(11月号は休載)翌年1965年(昭和40年)3月号まで14回連載され、同年7月26日に中央公論社より単行本刊行された。なお、単行本は、初出誌版を加筆・改稿した形のものが刊行された。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 13:47 UTC 版)
1969年(昭和44年)、雑誌『海』7月創刊号に掲載され、雑誌発売直後の同年6月28日に中央公論社より単行本刊行された。文庫版は1975年(昭和50年)8月10日に中公文庫より刊行されたが出版禁止で絶版となり、現行では2002年(平成14年)12月刊行の『決定版 三島由紀夫全集第25巻・戯曲5』でしか読めない。翻訳版は佐藤紘彰訳(英題:“The Terrace of The Leper King”)で行われている。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 00:44 UTC 版)
執筆時期は、最後の☆章(付記)に「昭和七年の頃」とあるように、東京帝国大学国文学科在学中の1932年(昭和7年)から翌1933年(昭和8年)3月卒業後の横浜高等女学校教員となって間もない時期にかけて書かれたとみられ、原稿末尾には「昭和八年九月十六日夜十二時半」と脱稿日が記されている。 この脱稿日の日付は、記された後に消されている「見せ消ち」であるが、中島が伯父・斗南の遺稿詩文集『斗南存稾』を東大付属図書館に寄贈した日付(昭和8年1月23日)などの外部徴証からみても、1933年(昭和8年)9月16日前後が脱稿日でほぼ間違いないものとみられており、ほとんどの中島関連資料の年譜でも同年月が脱稿日となっている。 原稿の清書に関しては、中島の横浜高女教師時代の生徒・飯島美江子(旧姓・鈴木)の記憶によれば、1939年(昭和14年)7月頃から「虎狩」「斗南先生」「山月記」の原稿の清書を中島から依頼されたとし、実際に中島がこの生徒に清書依頼をした書簡の日付も「昭和14年7月23日」となっている。なお、この清書の年までの6年間の期間内に、一章から六章に加筆や修正があったかは定かではない。 「斗南先生」が発表されたのは、中島が「山月記」や「光と風と夢」で職業作家として文壇で認められた後のことで、1942年(昭和17年)7月15日に筑摩書房から刊行された初めての単行本、第一創作集『光と風と夢』に収録されてから世に知られるようになった。 第一高等学校から東京帝国大学時代にかけての初期の諸作の中では、中島が唯一、初の単行本の収録作品に選んだものであるため、作者の愛着がうかがえるものとなっている。初収録が決まった時期に、元の原形(初稿)の最後の六章の後に☆印の付章が追記されて完成稿となった。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 13:02 UTC 版)
1925年(大正14年)1月1日発行の、中谷孝雄、外村繁らとの同人誌『青空』1月創刊号の巻頭に掲載された。単行本は、梶井の友人である三好達治らの奔走により、梶井の亡くなる1年ほど前の1931年(昭和6年)5月15日に武蔵野書院より刊行され(印刷日は5月10日)、これが梶井の生涯で唯一の出版本となった。同書には他に17編の短編が収録されている。 翻訳版はアメリカ(英題:Lemon)、スペイン(西題:Remon)、中国(中題:檸檬)、フランス(仏題:Le Citron)、ドイツ(独題:Die Zitrone)などで刊行されている。
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発表経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 16:20 UTC 版)
1960年(昭和35年)、雑誌『中央公論』1月号から10月号に連載され、同年11月15日に新潮社より単行本刊行された。当初、単行本は中央公論社より刊行予定であったが、小説のモデル・有田八郎の抗議を受け、中央公論社の嶋中鵬二社長が二の足を踏んだため、新潮社からの刊行となった。文庫版は1969年(昭和44年)7月20日に新潮文庫で刊行された。 翻訳版はドナルド・キーン訳(英題:After the Banquet)をはじめ、イタリア(伊題:Dopo il banchetto)、オランダ(蘭題:Na het banket)、ギリシャ(希題:Μετά το συμπόσιο )、スウェーデン(典題:Efter banketten)、スペイン(西題:Después del banquete)、ドイツ(独題:Nach dem Bankett)、フランス(仏題:Après le banquet)、中国(中題:宴之後)など世界各国で行われている。
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発表経過
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1931年(昭和6年)、雑誌『改造』10月号に掲載された。この掲載は、改造社から “『中央公論』の人” と見なされ敬遠されていた牧野信一が、雑誌『改造』に発表した唯一のものである。その後、1936年(昭和11年)2月25日に芝書店より刊行の『鬼涙村』に収録された。
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発表経過
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1931年(昭和6年)1月1日発行の同人誌『作品』1月号に掲載された。その後、同年5月15日に武蔵野書院より刊行の作品集『檸檬』に収録された。同書には他に17編の短編が収録されている。 翻訳版は、Robert Allan Ulmer、Stephen Dodd訳によりアメリカ(英題:Mating)、Christine Kodama訳によりフランス(仏題:Accouplements)で行われている。
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発表経過
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1932年(昭和7年)、雑誌『中央公論』2月号に掲載され(挿画:高井貞二)、翌年1933年(昭和8年)6月26日に新潮社より刊行の『化粧と口笛』に収録された。その翌年1934年(昭和9年)12月25日に『抒情歌』として竹村書房より単行本刊行された。 翻訳版はFrancis Mathy訳(英題:Lyric poem)、韓国(韓題:抒情歌)、ロシア(露題:Энергия)、フランス(仏題:Élégie)、イタリア(伊題:Lirika)、ポーランド(波題:Elegia)など世界各国で行われている。
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発表経過
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1940年(昭和15年)、雑誌『海風』4月号(第6年第1号)に掲載された。改造社の第一回文芸推薦作品となり、同年、雑誌『文藝』7月号に再掲載された。単行本は同年8月15日に創元社より刊行された。文庫版は岩波文庫、新潮文庫、講談社文芸文庫などから刊行されている。 なお、2007年(平成19年)に続編(『続夫婦善哉』)の原稿が発見され、同年10月に雄松堂書店より正編・続編合わせた完全版『夫婦善哉』が刊行された。続編は別府が舞台となっている。
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