斗南先生とは? わかりやすく解説

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斗南先生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/30 14:24 UTC 版)

斗南先生』(となんせんせい)は、中島敦の短編小説。全7章から成る。中島が親族の中で最も強く影響を受けた伯父の斗南(中島端)の晩年を、似通う気質を持つ甥の視点から活写した私記的作品である[1][2][3][4]


注釈

  1. ^ この日付については、筑摩書房版の第二次『中島敦全集 第1巻』の郡司勝義による解題では「1月28日」となっていて(誤記の可能性)、同じく郡司編集の年譜の中では「1月23日」と書かれているが[12][6]、それ以降出版された全集の年譜などでは「1月23日」となっている[13][14]
  2. ^ 羅振玉(1866年-1940年)は、清朝末期から満州国期にかけて活躍した中国の学者。金石文甲骨文字の研究家[22]。羅振玉は上海で1896年から1900年まで「東文学社」という日本語学校を運営していた[23]辛亥革命の後、弟子の王国維とともに1912年から1919年まで京都に滞在して多くの日本人学者と交流した[23][24]。1932年の満州国成立後は満州政府に招かれて参議府参議・監察院長の要職を歴任した[24]
  3. ^ 豊陽館は、上海最大の日本人街だった呉淞路(現・上海市虹口区)に存在した日本旅館で、1894年に開業された[23]
  4. ^ 支那」は江戸期から戦前まで、広く「中国」を意味する語として日本で使用されていた言葉[23]。その語源は英語の「China」と同様、「」である[23]
  5. ^ 大山は霊山として古くから伝わる山で、遅くとも縄文時代後期には山岳信仰の対象となっていた[23]式内社である阿夫利神社が鎮座している[23]
  6. ^ 「斗南」は、代の狄仁傑が「北斗より南、狄仁傑にまさる賢人はいない」と敬われたことにちなんで、天下の賢人をさす言葉だが、中島端はそこに自ら「狂夫」と付けた[23]
  7. ^ 中島綽軒の長女のたわの娘である田中順子(長根翠の姉)によると、「八尾の従姉」は、綽軒の末娘・吉村彌生(順子の叔母)だと述べているが[41]、吉村彌生当人の証言では、八尾にいた姉の春中のことだと述べている[39]。ちなみに、彌生は10歳から20歳まで久喜市の中島撫山の家で同居し、斗南に教育されたという[39]
  8. ^ 『日本外交史』は、開国以来の日本の外交政策の失敗を批判する内容で、安政条約、慶応の改税約書岩倉使節団の欧米交渉、井上馨条約改正案、大隈重信の弥縫策などが槍玉に挙げられている[1]
  9. ^ この小説『野路乃村雨』の中では、登場人物の1人が「馬琴等は支那小説の奴隷ダ、今の小説家やつぱり西洋小説家の奴隷ダ」という小説論を述べる場面もある[1]
  10. ^ 文求堂は中国古書の専門書店で、中島家と縁つづきであった[24]
  11. ^ 中国分割が加速し始めたのは1895年(明治28年)の日清戦争後からで、それまでイギリスの独壇場であった中国内に、ドイツ・ロシア・フランスが日本とともに、中国領土の租借や勢力範囲画定に参加し、その後アメリカも加わって事実上の分捕り合戦は水面下で静かに進行していた[60]
  12. ^ そうしたアジア主義の言論の代表として、樽井藤吉近衛篤麿などがいた[58]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab 「七章 斗南先生、中国を論ず」(川村 2009, pp. 109–124)
  2. ^ a b c 氷上英廣「解説」(山月記・岩波 1994, pp. 401–419)
  3. ^ a b c 池澤夏樹「解説」(文字禍・角川 2020, pp. 149–157)
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 佐藤1 2020
  5. ^ a b 「中島敦――そのエスキス」(浅井清也編『研究資料現代日本文学22 小説・戯曲II』明治書院、1980年9月に原題「中島敦」として収録)。鷺 1990, pp. 72–77
  6. ^ a b c d e 「初期の習作――豊饒な可能性 一」(国文学論考 1989年3月・第25号)。鷺 1990, pp. 43–46
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n 勝又浩「解題――斗南先生」(ちくま1 1993, pp. 481–482)
  8. ^ 矢川澄子「中島敦における歌のわかれ」(KAWADE 2009, pp. 143–149)
  9. ^ a b c d e 孫 2004
  10. ^ a b c d e f 木村一信「作家案内――中島敦」(斗南・講談 1997, pp. 295–307)
  11. ^ a b c d e f g h i 「中島敦『斗南先生』の成立」(近代文学考 1978年11月)。「『斗南先生』――成立とのその意義」として木村 1986, pp. 43–59に所収
  12. ^ a b 郡司勝義「解題」(『中島敦全集 第1巻』筑摩書房、1976年3月)
  13. ^ a b c 勝又浩「年譜――昭和5年-昭和8年」(ちくま3 1993, pp. 449–452)
  14. ^ a b c 「中島敦略年譜」(KAWADE 2009, pp. 189–191)
  15. ^ a b c d e 「『斗南先生』論」(国語国文論集 1988年6月)。「斗南先生」として藤村 2015, pp. 139–160に所収
  16. ^ 「中島敦年譜」(川村 2009, pp. 335–341)
  17. ^ 飯島美江子「清書を手伝ったことなど」(田鍋 1989, pp. 222–224)
  18. ^ a b c 鷺只雄「作家案内――中島敦」(光と風・講談 1992, pp. 223–242)
  19. ^ 「書簡I――75 鈴木美江子宛 昭和14年7月23日」(ちくま2 1993, p. 376)
  20. ^ 勝又浩「年譜――昭和16年-昭和17年以降」(ちくま3 1993, pp. 455–459)
  21. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 「斗南先生」(ちくま1 1993, pp. 51–88)
  22. ^ 「注釈」(ちくま1 1993, p. 53)
  23. ^ a b c d e f g h i j k 「注釈」(文字禍・角川 2020, pp. 139–145)
  24. ^ a b c d e f 「四 資料解読四種――羅振玉『斗南存稿序』」(村山 2002, pp. 144–155)
  25. ^ a b 「注釈」(ちくま1 1993, p. 69)
  26. ^ a b c d e 曾根博義「中島敦の〈私小説性〉――昭和十年代の表現」(クロノ 1992, pp. 161–170)
  27. ^ a b 「六章 北方彷徨」(川村 2009, pp. 93–108)
  28. ^ 勝又浩「解題――過去帳」(ちくま2 1993, pp. 556–559)
  29. ^ a b c 勝又浩「解題――プウルの傍で」(ちくま3 1993, p. 482)
  30. ^ a b c 「中島家略系図」(村山 2002, p. 8)
  31. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 「二 中島家の人々――中島斗南」(村山 2002, pp. 60–70)
  32. ^ 「中島敦家系図」(ちくま3 1993, p. 443)
  33. ^ a b c d e 村山吉廣「家系・教養――『家学』を中心に」(クロノ 1992, pp. 9–19)
  34. ^ 「注釈」(ちくま1 1993, p. 83)
  35. ^ 「三 中島敦の生涯――父中島田人」(村山 2002, pp. 91–95)
  36. ^ a b 「二 中島家の人々――中島玉振」(村山 2002, pp. 70–80)
  37. ^ a b c d e f 「中島敦抄――家」(勝又 2004, pp. 3–12)
  38. ^ a b 「二 中島家の人々――関翊」(村山 2002, pp. 80–84)
  39. ^ a b c d e 吉村彌生「中島家の人々」(田鍋 1989, pp. 166–168)
  40. ^ a b c 「二 中島家の人々――山本開蔵」(村山 2002, pp. 84–86)
  41. ^ a b 田中順子「浜松のことなど」(田鍋 1989, pp. 181–182)
  42. ^ 第10回企画展 中島敦の『斗南先生』・実話(久喜市公文書館、1999年2月)
  43. ^ a b 荘島褧子「敦と私」(田鍋 1989, pp. 173–176)
  44. ^ 折原澄子「兄のこと」(田鍋 1989, pp. 225–228)
  45. ^ 「二 中島家の人々――中島比多吉」(村山 2002, pp. 87–90)
  46. ^ 中島斗南「日本文章の堕落に候」(日本及日本人 第689号・臨時増刊号、大正5年9月)。村山 2002, p. 61
  47. ^ a b c d e f g 「四 資料解読四種――中島竦『斗南存稿跋』」(村山 2002, pp. 156–171)
  48. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 後藤 2006
  49. ^ 坂倉 2020
  50. ^ 稲本晃「秀才中島敦君」(田鍋 1989, pp. 196–198)
  51. ^ 小山政憲「『校友会雑誌』その他のこと」(田鍋 1989, pp. 198–200)
  52. ^ 中島甲臣「敦さんについて、など」(田鍋 1989, pp. 168–169)
  53. ^ a b 塚本盛彦「敦のこと」(田鍋 1989, pp. 171–172)
  54. ^ a b c 「出自」(森田 1995, pp. 14–33)
  55. ^ 藤田敦男「浜松西小学時代の中島君」(田鍋 1989, pp. 182–184)
  56. ^ 中島タカ「思い出すことなど」(田鍋 1989, pp. 153–165)
  57. ^ a b c d 渡邊一民「すべては中島敦の中にあった」(KAWADE 2009, pp. 18–24)
  58. ^ a b c d e f g 佐藤2 2020
  59. ^ 陳 2004
  60. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 後藤 2005
  61. ^ 増井経夫「中島竦さんとペンペン草」(『中島敦全集 別巻』筑摩書房、2002年5月)。藤村 2015, pp. 158–159に抜粋掲載
  62. ^ a b 濱川勝彦「中島敦序論――初期作品を中心に」(国語国文 38号 1969年4月)。「『虎狩』まで」として『中島敦の作品研究』(明治書院、1976年9月)に所収。佐藤1 2020, pp. 301–302に抜粋掲載
  63. ^ a b c 佐々木充「『斗南先生』――原型の発見l」(『中島敦の文学』桜楓社、1973年6月)。木村 1986, pp. 47–48、佐藤1 2020, p. 301に抜粋掲載
  64. ^ 臼井吉見「中島敦の文学」(展望 1948年12月号)。のち『人間と文学』(筑摩書房、1957年)に所収。クロノ 1992, p. 162、鷺 1990, p. 197に抜粋掲載
  65. ^ a b c d 佐伯彰一「解説――伝記の功徳」(森田 1995, pp. 182–190)
  66. ^ a b c 郭玲玲 2015
  67. ^ 佐々木充「『弟子』――己を支えるもの」(『中島敦の文学』桜楓社、1973年6月20日)pp.312-330。郭玲玲 2015, p. 38に抜粋掲載
  68. ^ 「第十六章 中島敦ノート(六)――『南洋行』から『弟子』へ(2)」(『中島敦研究』渓水社、1998年12月)p.270。郭玲玲 2015, p. 38に抜粋掲載




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