「婚約」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 10:15 UTC 版)
年が明けた1957年2月、2人は蕎麦屋で長時間語り合った後、「婚約」を決める。しかしその後、冷静さを取り戻した慧生は友人達の猛反対にもあい、何度かOに「婚約解消」を持ち出すが、その度に彼が自暴自棄になって解消は立ち消えになるという事を繰り返した。慧生は家族に交際を知られないよう、Oとの手紙のやり取りを友人の名前で作った封筒で行うなど行動に細かくルールを取り決めていた。 7月、Oは大学院進学を諦め、アルバイトをしながら2人の将来のための貯蓄をはじめる。お金は慧生が預かり、月に一度は貯金をするという約束をした。慧生は夏に妹と冨士登山をしたり、友人との手紙のやり取りからも学生生活を謳歌していて、2年生の秋頃まで言動に陰りは見られない。一方、Oは10月末頃、知人にセックスに関する悩みを打ち明けている。自分の父親が愛人に子供を産ませており、その血が自分にも流れている事を悩んでいた。 事件の1か月ほど前の11月10日には、慧生はOに宛てた書簡の中で、「(前略)昼間屋上のベンチで過ごしたときのことを考えると涙が出てきます。今もあんなふうに武道様(O)に甘えたい。(中略)武道様が思ってくださると思うだけでニャンコは幸せです。ほんとうに幸せ。世界で一番幸せです」と綴り、「大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな武道様、エコより」と結んでいる。同月13日の書簡には「誰もいなかったら飛んで行ってかじりつきたい」、15日には「『熱烈な恋愛中』と書いた幟を立てて毎日東京中を歩いてもかまわない」、17日には「武道様のそういう根本的な暖かさ」に「『ゾッコン参って』います」と書いている。 11月、慧生に思いを寄せていた男子学生が、秘密にしていたOとの婚約を知った事による非難の手紙が慧生に送られている。慧生がまた体調を崩す。11月30日、慧生からO宛の最後の手紙には、月曜日に毎月の貯金に一緒に行く事が書かれていて、死の影は見えない。 12月1日の日曜日、熱を出して休んでいた慧生の自宅にOと見られる男から電話があり、慧生が電話口で「いらしていただいても困ります!」と珍しく声を荒らげていた。その日の夕方、「自由が丘まで行く」と言って外出した。
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