第3年
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《第3年》(Troisième année, S.163)は1883年に出版された。多くはリストが挫折し精神的に憔悴しきっていた1877年に作曲されており、1840年頃にほとんどの原曲があるこれまでの作品集とは40年ほどにもおよぶ隔たりがある。各曲には晩年のリストの特徴である不協和音やレチタティーヴォ風の単旋律の使用、宗教的・禁欲的な雰囲気が表れている。 リストはこの巻に《糸杉と棕櫚の葉》の題を与えようと考えていたことがあったが、糸杉は「喪(死)」、棕櫚は「殉教」の象徴とされている。音楽学者の野本由紀夫は、リストがこれらの楽曲に「死と救済」の思いを託しており、曲集のうち第2,3,5,6曲は哀歌(死)、第1,4,7曲は宗教による慰めの性格を示すとしている。 アンジェラス!守護天使への祈り Angélus! Prière aux anges gardiensアンジェラスとは朝・昼・夜に行うカトリックのお告げの祈り、またはその時を知らせる鐘のことで、冒頭に聞こえる旋律がそれである。ダニエラ・フォン・ビューロー(ハンス・フォン・ビューローとコージマの娘、リストの孫娘)に献呈。 エステ荘の糸杉にI:哀歌 Aux cyprès de la Villa d'Este I: Thrénodieエステ荘はローマにほど近いティヴォリに建つ城館で、リストはホーエンローエ枢機卿からその数室を貸し与えられていた。1877年にここを訪れたリストは、庭園の糸杉の下で3日間を過ごしながら、「強迫観念に駆られ、枝葉が歌いむせび泣く声を聞き、それを五線譜に書き留めた」。糸杉は「喪」の象徴である。なお、この曲がマリー・ダグー伯爵夫人の死(1876年)を悼んだものだとする説は誤りである。 エステ荘の糸杉にII:哀歌 Aux cyprès de la Villa d'Este II: Thrénodieミケランジェロが植えたと伝えられていた糸杉の印象から作曲されたが、後にそれが誤りであることが分かったため、リスト自身がミケランジェロの名を題名から外している。 エステ荘の噴水 Les jeux d'eaux à la Villa d'Esteリストの代表作の一つに数えられ、晩年の作品中ではとりわけ演奏機会が多い。巧みなアルペジオで水の流れを描写し、華麗な曲調が晩年の作品の中では異例とみなされることが多いが、他の作品と同様に宗教的な要素も含んでいる。ラヴェルの『水の戯れ』やドビュッシーの『水の反映』がこの曲に直接的に触発されて作曲されたという点で、フランス印象主義音楽に多大な影響を与えた作品とされる。後年ブゾーニが聞いたところによると、この曲を聴いたドビュッシーはそのあまりに印象主義的な響きに顔色を失ったという。曲の半ばに「私が差し出した水は人の中で湧き出でる泉となり、永遠の生命となるであろう」というヨハネ福音書からの引用が掲げられている。 ものみな涙あり/ハンガリーの旋法で Sunt lacrymae rerum/En mode hongrois「ものみな涙あり」はヴェルギリウスの『アエネーイス』におけるトロイア陥落の場面に現れる一節である。この曲は元々は〈ハンガリー哀歌〉という曲名であったことから、トロイア陥落とハンガリー革命(1848-49年)の失敗を重ね合わせて、国に殉じた者たちに捧げた哀歌と考えられている。ハンス・フォン・ビューローに献呈。 葬送行進曲 Marche funèbre1867年に銃殺されたメキシコ皇帝マクシミリアン1世の追悼のための葬送音楽で、皇帝の死後すぐに書かれている。 心を高めよ Sursum corda「心を高めよ(スルスム・コルダ)」はミサの序誦の一節から採られたものである。その名の通り、終曲にふさわしい荘厳な曲になっている。
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