メキシコ皇帝
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メキシコ皇帝(メキシコこうてい、西: Emperador de México)は、19世紀における、一貫性のなかった2つのメキシコ帝国の国家元首及び支配者である。
1821年のスペインからのメキシコ帝国独立宣言によりメキシコは独立し、君主制(メキシコ第一帝政、1822年 – 1823年)が敷かれた。第一帝政はまもなく第一共和制に取って代わられた。1860年代にフランスの後ろ盾を得た保守派により、メキシコに君主制が復活した(メキシコ第二帝政、1864年 – 1867年)。
第一帝政(1822年 – 1823年)
肖像 | 名前 | 在位年 | 備考 |
---|---|---|---|
1822年5月19日 - 1823年3月19日 |
帝位請求者(1824年 – 1864年)
肖像 | 名前 | 請求年 | 備考 |
---|---|---|---|
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1824年7月19日 - 1864年4月10日 | アグスティン1世の長男。 |
第二帝政(1864年 – 1867年)
肖像 | 名前 | 在位年 | 備考 |
---|---|---|---|
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1864年4月10日 - 1867年5月15日 | オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟。 |
帝位請求者 (1867年 – 現在)
肖像 | 名前 | 請求年 | 備考 |
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1867年6月19日 - 1925年3月3日 | アグスティン2世の甥。 マクシミリアーノ1世の養子。 | |
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1925年3月3日 - 1949年12月 | アグスティン1世の曾孫。 アグスティン3世の従姪。 | |
1949年12月 - 現在 | マリア1世の孫(グスタフ・アドルフ・フォン・ゲッツェンの曾孫)。 イトゥルビデ家(ゴッチェン=イトゥルビデ家)の現当主。 |
系図
実線は実子、破線は養子。
アグスティン1世 メキシコ皇帝 | |||||||||||||||||||||||||||||
アグスティン2世 | アンヘル | マクシミリアーノ1世 メキシコ皇帝 | サルバドール | ||||||||||||||||||||||||||
アグスティン3世 | サルバドール | ||||||||||||||||||||||||||||
ヤン・トゥンクロヴ=ズ=ブルニチュカ | マリア1世 | ||||||||||||||||||||||||||||
グスタフ・フォン・ゲッツェン | マリア・ギゼラ | ||||||||||||||||||||||||||||
マクシミリアーノ2世 | |||||||||||||||||||||||||||||
関連項目
外部リンク
- casa imperial de Mexico(スペイン語)(英語)
メキシコ皇帝
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「マクシミリアン (メキシコ皇帝)」の記事における「メキシコ皇帝」の解説
この頃メキシコは、自由主義的な改革を推進しようとするベニート・フアレスらと保守派の間で内戦状態(「レフォルマ戦争」)となっており、1861年までにはフアレス側が優勢となった。そのため、保守派はフランス皇帝ナポレオン3世と結んで巻き返しを図った。同年、アメリカ合衆国が南北戦争に突入して介入が困難だったこともあり、フランスなどがメキシコに軍事干渉を行い、1864年にナポレオン3世がオーストリア皇帝の弟であるマクシミリアンを傀儡として帝位に就けた。
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