王位請求者
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王位請求者(おういせいきゅうしゃ)は、王位を現実行動として要求する者、もしくは理論上の王位継承順位の筆頭にある者のこと。請求対象が皇帝位である帝位請求者など、「王位」以外の君主の座を請求する者も本記事で扱う。歴史的な正統性・貴種性を有する者のみならず、高貴な血統を詐称することで玉座を狙う者や、逆に歴史や血統などによらない者も含まれうる。
注釈
- ^ このニュアンスで日本語訳すれば「王位僭称者(おういせんしょうしゃ)」、「王位覬覦者(おういきゆしゃ)」といった表現になる。
- ^ オーストリアのシュヴァルツ=ゲルベ・アリアンツ、ポーランドの保守王党派クラブ、チェコのコルナ・チェスカなど。
- ^ スペイン王位請求者のルイス・アルフォンソ・デ・ボルボンと同一人物。フランス語名での表記。
- ^ ジャコバイトは百年戦争期(1337年 - 1453年)からずっとイングランド王がフランス王位継承者たることを主張しているため、ヴァロワ朝のフランソワ1世(在位:1515年 - 1547年)とフランソワ2世(在位:1559年 - 1560年)を当然フランス王として認めておらず、したがって「フランソワ」という名のフランス王は「フランソワ1世」ことモデナ公フランチェスコ5世に続いて彼が2人目ということになる。
出典
- ^ マイケル・ジョゼフ・グロス (2018年4月27日). ““There’s Nothing Wrong with Falling from Grace”: The Global Network of Monarchists Helping Deposed Kings and Queens”. ヴァニティ・フェア 2019年12月9日閲覧。
- ^ Hadley Meares (2018年11月30日). “Why 100 Imposters Claimed to Be Marie Antoinette’s Dead Son”. ヒストリーチャンネル 2020年1月10日閲覧。
- ^ ビリアルスキ(2016), p. 161.
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- ^ MENSAJE AL PUEBLO CARLISTA DE S.M.C. DON CARLOS JAVIER I DE BORBÓN, REY DE LAS ESPAÑAS – blogspot El Carlismo contra Globalizatión (Spanish)
- ^ “"Eres nuestro rey": por qué los ultras aclaman a Luis Alfonso en plena crisis en Zarzuela”. EL ESPAÑOL. (2018年7月17日) 2018年10月22日閲覧。
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- 1 王位請求者とは
- 2 王位請求者の概要
- 3 脚注
帝位請求者
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「キリル・ウラジーミロヴィチ」の記事における「帝位請求者」の解説
1922年8月、キリルはそれまで存在すらしていなかった「ロシア帝位の保護者」の称号を名乗った。そしてさらに2年後の1924年8月31日、キリルはさらに踏み込む形で「全ロシアの皇帝にして専制君主」の称号を名乗ったのである。帝位継承法(英語版、ロシア語版)に照らし合わせれば、キリルはニコライ2世一家とミハイル大公がボリシェヴィキ政府によって処刑された今、ロシア帝位請求権者の首位にあった。しかしながらキリルの母がキリルを出産した時にまだプロテスタント信徒で正教に改宗していなかったことを理由として、かつてのロシア皇族からキリルの帝位請求には反対の声が挙がった。加えて帝位請求者となって以降、仮に帝政復活が実現するならばソヴィエト体制の要素がロシアに残ったままでも許容する考えだったこともあり、「ソヴィエトのツァーリ」とまで揶揄されるようになった。 亡命生活を送る間、キリルは正統王朝主義者(レギチミスティ、легитимисты)と名乗る亡命ロシア人の一部から資金援助を受けて生活していた(「正統」とは、キリルの帝位継承の「正統性」にちなむ呼称だった)。キリルを皇帝と認めない人々は非決定主義者(ネプレドレシェンツィ、непредрешенцы)と呼ばれた。彼らは以前の体制を根底から覆すような革命が起きてしまった以上、帝政を復活するにしても新たな皇帝はゼムスキー・ソボルの選出を受ける必要があるだろう、と主張していた。これには「前例」も存在した。1922年に白軍の指導者の一人ミハイル・ディテリフス将軍によって開催された「アムール地方のゼムスキー・ソボル」が、ニコライ2世やキリルの従叔父に当たるニコライ・ニコラエヴィチ大公を「全ロシアの皇帝」と宣言していたのである。 キリルは青年ロシア人(ムラドロッシ(英語版))という君主制支持者の組織から強力に支持されるようになった。ムラドロッシは亡命ロシア人による君主制支持組織で、他のファシスト運動とは距離を置いていたものの、ファシズムの強い影響を受けていた。しかしムラドロッシはツァーリ専制体制とソヴィエト独裁体制は平和的に共存可能であると主張するようになり、ソヴィエトに対する共感を強めていった(その頃から彼らは「ツァーリとソヴィエト」をスローガンとして標榜した)。キリルはムラドロッシの組織者であるアレクサンドル・カゼム=ベク(英語版)がGPUのエージェントとの会合を重ねていることを突き止めてからは、同組織に対して用心深くなった。キリルはカゼム=ベクが組織の総裁職を辞任することに同意している。キリルの一人息子ウラジーミルは、第二次世界大戦が終わる頃までムラドロッシと繋がりを保ち続けた。 キリルが1938年に死去すると一人息子のウラジーミルがロシア帝室家長の座を継いだが、帝室の一部の人々はウラジーミルを家長とは認めなかった。ソビエト連邦が崩壊した後、ドイツのコーブルクに埋葬されていたキリルの遺骸はサンクトペテルブルクのペトロパヴロフスク要塞に移された。 ウィキメディア・コモンズには、キリル・ウラジーミロヴィチに関連するカテゴリがあります。 ロシア帝室先代:ニコライ2世 ロシア帝室家長1924年 - 1938年 次代:ウラジーミル 表 話 編 歴 ロシア大公第1世代 アレクセイ・ペトロヴィチ アレクサンドル・ペトロヴィチ パーヴェル・ペトロヴィチ ピョートル・ペトロヴィチ 第2世代 ピョートル2世 ピョートル3世 第3世代 パーヴェル1世 第4世代 アレクサンドル1世 コンスタンチン・パヴロヴィチ ニコライ1世 ミハイル・パヴロヴィチ 第5世代 アレクサンドル2世 コンスタンチン・ニコラエヴィチ ニコライ・ニコラエヴィチ ミハイル・ニコラエヴィチ 第6世代 ニコライ・アレクサンドロヴィチ アレクサンドル3世 ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ アレクセイ・アレクサンドロヴィチ(英語版) セルゲイ・アレクサンドロヴィチ パーヴェル・アレクサンドロヴィチ ニコライ・コンスタンチノヴィチ コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ ドミトリー・コンスタンチノヴィチ ヴャチェスラフ・コンスタンチノヴィチ ニコライ・ニコラエヴィチ ピョートル・ニコラエヴィチ ニコライ・ミハイロヴィチ ミハイル・ミハイロヴィチ ゲオルギー・ミハイロヴィチ アレクサンドル・ミハイロヴィチ セルゲイ・ミハイロヴィチ アレクセイ・ミハイロヴィチ 第7世代 ニコライ2世 アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ ミハイル・アレクサンドロヴィチ アレクサンドル・ウラジーミロヴィチ キリル・ウラジーミロヴィチ ボリス・ウラジーミロヴィチ(英語版) アンドレイ・ウラジーミロヴィチ ドミトリー・パヴロヴィチ イオアン・コンスタンチノヴィチ1 第8世代 アレクセイ・ニコラエヴィチ ウラジーミル・キリロヴィチ・ロマノフ2 第9世代 フランツ・ヴィルヘルム・フォン・プロイセン3 第10世代 ゲオルギー・ミハイロヴィチ・ロマノフ3 1ロシア大公として誕生したが、アレクサンドル3世の布告により大公の地位を喪失した。 2ロマノフ家協会(英語版)は、キリル・ウラジーミロヴィチによる家長位請求を認めていない。 3ロマノフ家協会は、ウラジーミル・キリロヴィチ・ロマノフによる家長位請求を認めていない。 典拠管理 WorldCat Identities BNF: cb149776122 (データ) GND: 122340191 ISNI: 0000 0000 8262 428X LCCN: n92087853 NKC: js20020812140 NLA: 36213800 SELIBR: 281250 SUDOC: 112514839 VIAF: 72272968
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帝位請求者(1824年 – 1864年)
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「メキシコ皇帝」の記事における「帝位請求者(1824年 – 1864年)」の解説
肖像名前請求年備考 "アグスティン2世"(アグスティン・デ・イトゥルビデ・イ・ウアルテ)1807年 - 1866年 1824年7月19日 - 1864年4月10日 アグスティン1世の長男。
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帝位請求者 (1867年 – 現在)
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「メキシコ皇帝」の記事における「帝位請求者 (1867年 – 現在)」の解説
肖像名前請求年備考 "アグスティン3世"(アグスティン・デ・イトゥルビデ・イ・グリーン)1863年 - 1925年 1867年6月19日 - 1925年3月3日 アグスティン2世の甥。マクシミリアーノ1世の養子。 "マリア1世"(マリア・ホセファ・デ・イトゥルビデ・イ・ミコス・デ・タロタザ)1872年 - 1949年 1925年3月3日 - 1949年12月 アグスティン1世の曾孫。アグスティン3世の従姪。 "マクシミリアーノ2世"(マクシミリアーノ・デ・ゴッチェン=イトゥルビデ(オランダ語版))1944年 - 現在 1949年12月 - 現在 マリア1世の孫(グスタフ・アドルフ・フォン・ゲッツェンの曾孫)。イトゥルビデ家(英語版)(ゴッチェン=イトゥルビデ家)の現当主。
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帝位請求者
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(37) アブデュルメジト2世、1922年 - 1944年先代(最後の皇帝)メフメト6世の従弟32代アブデュルアズィズ1世の子 「スルタン」ではないが「カリフ」の称号は継承(1922-1924年)。1924年にカリフ制そのものが廃止され退位。 (38) アフメト4世、1944年 - 1954年33代ムラト5世の孫 (39) オスマン4世、1954年 - 1973年先代の弟33代ムラト5世の孫 (40) アブデュルアズィズ2世、1973年 - 1977年32代アブデュルアズィズの孫(37) アブデュルメジト2世の甥 (41) アリー1世、1977年 - 1983年(38) アフメト4世の子 (42) オルハン2世、1983年 - 1994年34代アブデュルハミト2世の孫 (43) エルトゥールル2世、1994年 - 2009年先代の従兄34代アブデュルハミト2世の孫 (44) バヤズィト3世、2009年 - 2017年31代アブデュルメジト1世の曾孫36代(最後の皇帝)メフメト6世の兄メフメト・ブルハネッティン・エフェンディの孫 (45) アリー2世、2017年 - 2021年34代アブデュルハミト2世の曾孫 (46)ハルーン・オスマン、2021年 - 現在34代アブデュルハミト2世の曾孫
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