ピョートル・ニコラエヴィチとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ピョートル・ニコラエヴィチの意味・解説 

ピョートル・ニコラエヴィチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/11 01:18 UTC 版)

ピョートル・ニコラエヴィチ
Пётр Николаевич
ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家

称号 ロシア大公
出生 1864年1月10日
ロシア帝国 サンクトペテルブルク
死去 (1931-01-17) 1931年1月17日(67歳没)
フランス共和国 アンティーブ
配偶者 ミリツァ・ニコラエヴナ
子女 マリナ
ロマン
ナジェジダ
ソフィア
父親 ニコライ・ニコラエヴィチ
母親 アレクサンドラ・ペトロヴナ
宗教 ロシア正教会
テンプレートを表示

ピョートル・ニコラエヴィチロシア語表記:Пётр Николаевич,1864年1月10日 - 1931年1月17日)は、ロシア帝国の皇族。ニコライ1世の孫息子の一人で、ロシア大公の称号を有した。

生涯

1864年1月10日、ニコライ大公アレクサンドラ大公妃の次男として、サンクトペテルブルクに生まれる。成長後はロシア帝国陸軍に中尉として入隊した。

1907年、ピョートルの兄ニコライ・ニコラエヴィチ大公と、妻ミリツァ・ニコラエヴナの妹アナスタシアが結婚した。ニコライ夫妻とピョートル夫妻は、20世紀初頭のロシア宮廷で非常に大きな影響力を振るった。二組の夫婦は「黒い家族」というあだ名を付けられ、オカルトに熱中していた。彼らは最初、フィリップ・ヴァショというスイス人の偽神秘家をニコライ2世アレクサンドラ皇后に紹介し、次いでロシア人農夫上がりのグリゴリー・ラスプーチンを紹介した。

皇帝の義理の甥であるフェリックス・ユスポフは、ピョートルとミリツァ、アナスタシア姉妹を「邪悪な権力の中心」と呼んでいた。こうした見方は徐々にロシア宮廷中に浸透していった。マリア皇太后は、ニコライ、ピョートルとその妻たちが宮廷を牛耳るため、ノイローゼ気味のアレクサンドラのもとにラスプーチンを送り込んだと信じていた。しかし、1914年までにアレクサンドラ本人も彼らを「黒い家族」と呼ぶようになり、彼らに操られていると意識し始めた。

ピョートル夫妻とニコライ夫妻は、ロシア革命後にイギリス戦艦マールバラに乗ってロシアを脱出し、南フランスに亡命した。ピョートルは1931年にアンティーブで死去し、妻ミリツァは1951年にエジプトアレクサンドリアで死去した。

家族

1889年7月26日、モンテネグロ国王ニコラ1世の娘ミリツァと結婚し、4人の子女をもうけた。

  • マリナ(1892年 - 1981年)
  • ロマン(1896年 - 1978年)
  • ナジェジダ(1898年 - 1988年)
  • ソフィヤ(1898年) - ナジェジダの双子の姉妹



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ピョートル・ニコラエヴィチ」の関連用語

ピョートル・ニコラエヴィチのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ピョートル・ニコラエヴィチのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのピョートル・ニコラエヴィチ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS