ピョートル・ネステロフとは? わかりやすく解説

ピョートル・ネステロフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/18 05:16 UTC 版)

ピョートル・ネステロフ
Пётр Нестеров
生誕 (1887-02-15) 1887年2月15日
ロシア帝国 ニジニ・ノヴゴロド
死没 (1914-08-26) 1914年8月26日(27歳没)
ロシア帝国 ウクライナ ジョウクヴァ
所属組織 陸軍飛行戦隊
砲兵
軍歴 1904年8月 - 1914年8月
出身校 ミハイロフスコエ砲兵学校など
配偶者 ヤドヴィガ・フェリクソヴナ・ネステロワ(旧姓ルネフスカヤ、再婚後はドクチャエワ)
テンプレートを表示

ピョートル・ニコラエヴィチ・ネステロフロシア語: Пётр Николаевич Нестеровラテン文字転写の例:Pyotr Nikolayevich Nesterov1887年2月15日 - 1914年8月26日)は、ロシア帝国の軍人。パイロットであり、1904年8月から1914年8月まで軍務にあった。曲技飛行のパイオニアでもある。

概要

1887年2月15日にロシア帝国ニジニ・ノヴゴロドにて、軍の士官学校の教師の息子として誕生した。軍人の道を選び、1904年8月に士官学校を去った後は砲兵学校に進み[1]、1906年10月に東シベリア第9砲兵隊に少尉として配属された[2]。1909年に飛行機会社に派遣されて航空の世界に入り、最初のグライダーを製作して飛行の練習を始めた。1911年6月から軍の飛行士としての訓練を受け、1912年11月に課程を修了して軍のパイロットになった後は、1913年5月にキエフの隊のリーダーとなり、夜間飛行を実施した。また70馬力のエンジンのニューポールIVで観衆の前で宙返り飛行を実施したこともあった。この飛行で軍からは懲罰を受けたが、ネステロフは有名になり、後に勲章を受章した。

第1次世界大戦期

1914年7月に第1次世界大戦が始まると戦闘に参加し、爆弾の投下に技術を見せた。戦争の初期に航空機は武装は無かったが、ネステロフは敵の航空機を空中で破壊した最初のパイロットとなった。同年8月26日にモラーヌ・ソルニエ単葉機に乗ったネステロフは、偵察士のフリードリッヒ・フォン・ローゼンタールと操縦士のフランツ・マリーナの乗ったオーストリア軍の偵察機のアルバトロスB.IIを撃墜するために、彼の機の主脚を敵機に衝突させようとした。しかしプロペラが敵機に当たって2機は墜落し、乗員は3人とも死亡した。この戦闘の場所に近いジョウクヴァの街は一時期ネステレフと改名されていた。ネステレフの行った体当たり戦法は第2次世界大戦のソ連空軍にも受け継がれ、タラーン戦法と呼ばれた。ネステロフはウクライナのジョウクヴァにて、27歳で死去した。

功績

ネステロフの功績を讃え、ソ連は曲技飛行の乗員に贈るネステロフ・カップを創設し、これは後に国際航空連盟の世界エアロバティック選手権のチャンピオンに贈られるネステロフ・トロフィーに引き継がれた。

脚注

  1. ^ 名前:ピョートル・ネステロフ(360wiki.ru)[リンク切れ]
  2. ^ ピョートル・ネステロフ(shkola-dpp.ru)[リンク切れ]




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ピョートル・ネステロフ」の関連用語

ピョートル・ネステロフのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ピョートル・ネステロフのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのピョートル・ネステロフ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS