アラウカニア・パタゴニア王国とは? わかりやすく解説

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アラウカニア・パタゴニア王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/17 05:39 UTC 版)

アラウカニア・パタゴニア王国
Royaume d'Araucanie et de Patagonie (フランス語)
1860年 - 1862年
(国旗) (国章)
国の標語: Independencia y Libertad(スペイン語)
自由と独立

アラウカニア・パタゴニア王国の領土
公用語 フランス語マプドゥングン語
首都 ペルケンコ
国王
1860年 - 1862年 オルリ・アントワーヌ1世
変遷
宣言 1860年11月17日
「国王」追放 1862年

アラウカニア・パタゴニア王国Royaume d'Araucanie et de Patagonie)とは、1860年フランス人弁護士冒険家オルリ・アントワーヌ・ド・トゥナン南アメリカ大陸の南部に建国した国家。

19世紀半ばに南アメリカ大陸の南部においては、原住民族のマプチェ族(Mapuche)がアルゼンチンチリの進出に武装抵抗を行っていた。1860年にこの地を訪れたオルリ・アントワーヌ・ド・トゥナンは、マプチェ族に共感し、1860年11月17日ラ・アラウカニア州の独立宣言を行い、12月20日にはパタゴニアもその領域に含めた。彼は、その宣言の写しをチリの新聞に送付している。

マプチェ族はオルリ・アントワーヌ・ド・トゥナンの行動を理解し、彼を王に推挙した。その後、国旗として青・白・緑の三色旗が制定され、硬貨の鋳造も行われた。

オルリ・アントワーヌ・ド・トゥナンは、1862年にチリ政府に拘束され、フランスに追放される。1863年に回想録を出版した後、1869年にアラウカニアを再訪し1871年まで滞在している。その後、フランスに帰国し1878年に死亡した。

マプチェ族の領域は、チリ・アルゼンチン両政府の交渉と武力制圧により、1880年代頃に両政府の領土となった。

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